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周王を尊敬し,夷狄(いてき)(非漢族)の中国侵入を打ち払うこと。春秋時代の覇者の行動原理で,のち春秋の公羊学(くようがく)が理論づけ,南宋の朱熹(しゅき)によって大義名分,華夷峻別の理論にまで高められた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…2巻。水戸藩の藩校弘道館(1841開館)の建学の趣旨を示した徳川斉昭撰の《弘道館記》(1838成稿)に,その草稿の作成者であった東湖が,命をうけて逐語的に注釈を加えたもので,敬神崇儒,尊王攘夷,忠孝無二,文武不岐,学問・事業の一致という後期水戸学の主要思想が集約的に提示されている。会沢正志斎の《新論》とともに水戸学を代表する著作である。…
…さらに1853年(嘉永6)のペリー来航前後になると,彼我の力関係を無視した打払いを無謀として退ける意見だけでなく,時勢上鎖国は不可能だとする意見が出はじめ,弱肉強食の世界において列強に対抗するには海外膨張を実行する以外にないという,攘夷的開国論ともいうべき主張も展開される。 1858年(安政5)に日米通商条約が勅許を求めつつも無勅許で調印されると,下級武士を主要な担い手として尊王攘夷運動が起こる。下級武士が幕藩制の政治機構とは離れて,むしろそれに対立する独自の政治運動を始めた点で,この運動は画期的意味をもつが,ここでは攘夷の名のもとに西洋人や西洋人用の施設の襲撃,あるいは西洋船の打払いなどが盛んに行われる。…
…幕末に天皇親政論が出てくることは,これなしには考えられないであろう。 幕末における内外の危機に対応して登場する水戸学は,攘夷を創唱すると同時に尊王と結びつけ,その後の過程で重要な役割を演ずる尊王攘夷の観念を打ち出した。ここでは,儒教の名分論を基礎としつつ国学の理論をもとり入れ,一系の天皇が存続し忠の道徳が妥当してきた日本の国家体制(国体)の優秀性を強調しながら,尊王が以前にないほど強く説かれる。…
…幕末における内外の危機に対応して水戸藩士の一部によって展開され,尊王攘夷の観念を打ち出すことによってその後の歴史に大きな影響を及ぼした思想。18世紀末から活躍する藤田幽谷によって基礎がおかれ,弟子の会沢正志斎や子の藤田東湖らによって確立され,彼らの著作や活動,さらには彼らを重用した9代藩主徳川斉昭の声望を通して,藩外にまで影響を与えた。…
※「尊王攘夷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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