日本歴史地名大系 「有玉下村」の解説 有玉下村ありたましもむら 静岡県:浜松市旧長上郡・豊田郡地区有玉下村[現在地名]浜松市有玉南町(ありたまみなみまち)馬込(まごめ)川左岸にあり、東は天竜川の沖積平野が広がり、西は三方原に続く。有下村、たんに下村とも称された。本坂通が通り、東は小池(こいけ)村。有玉を冠する下・町田(ちようだ)・畑屋(はたや)・上瀬(かみぜ)・新(しん)・松木島(まつのきじま)各村の地は近世初期まで有玉郷と称したという。前掲六ヵ村に加え小池村も属していたともいわれる。なお有玉の地名は麁玉(あらたま)郡にちなむとする説がある。中世は美薗(みその)御厨に属していた。大木信雄氏が所蔵する大般若経巻四二四の奥書に応永三年(一三九六)一二月八日付で「遠州美薗有玉郷湯屋原住人」として昌金の名がみえる。永正七年(一五一〇)と推定される一一月二三日の朝比奈泰熙書状(大沢文書)によれば、朝比奈泰熙は現在有玉などに陣取っており、明後日の二五日には必ず天竜川を越え、二六日には引間(ひくま)へ着陣する予定と大沢氏に伝えている。松平忠頼領郷村帳には前掲五ヵ村も含み有玉村とみえ、高一千三七六石余、田八三町四反余・畑七六町四反余、ほか龍秀(りゆうしゆう)院領二五石余、八幡領一二石、神明領六石。正保郷帳でも有玉村として高一千四二〇石余。明暦元年(一六五五)有玉村のうち下村分から「公事合手三六人引退」して福請(ふくうけ)村を立てたが、寛文五年(一六六五)に元に戻ったという(「高林伊兵衛忠勝自筆一代記」高林家文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by