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賀茂真淵 かもの まぶち

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美術人名辞典の解説

賀茂真淵

江戸中期の国学者・歌人。遠江浜松生。荷田春満の門。田安宗武に仕えたが辞し、浜町県居に住し幾多の著述を完成すると共に、本居宣長ら多くの門人を養成する。『万葉集』を中心とした古典研究など近世国学及び和歌史上大きな足跡を残し、国学の四大人の一人とされる。明和6年(1769)歿、73才。

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デジタル大辞泉の解説

かも‐の‐まぶち【賀茂真淵】

[1697~1769]江戸中期の国学者・歌人。遠江(とおとうみ)の人。岡部氏。号、県居(あがたい)。荷田春満(かだのあずままろ)に学び、国学四大人の一人といわれる。田安宗武に仕え、広く古典を研究し、復古主義を唱えた。門人に本居宣長らがいる。著「万葉考」「祝詞考」「冠辞考」「歌意考」「国意考」「賀茂翁家集」など。
[補説]門人は県門(けんもん)と称される。→県門の三才女県門の四天王

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百科事典マイペディアの解説

賀茂真淵【かものまぶち】

江戸中期の国学者,歌人。俗姓は岡部。号は県居(あがたい)。遠江(とおとうみ)国の禰宜(ねぎ)の子。浜松の脇本陣梅谷家に入婿後,上洛し荷田春満(かだのあずままろ)門下となり古典古語を研究。
→関連項目上田秋成香川景樹荷田在満楫取魚彦鹿持雅澄観世元章国意考国学(近世)古道学菅江真澄建部綾足塙保己一平賀元義

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

賀茂真淵 かもの-まぶち

1697-1769 江戸時代中期の国学者,歌人。
元禄(げんろく)10年3月4日生まれ。荷田春満(かだの-あずままろ)にまなぶ。春満の死後江戸にでて,延享3年田安宗武(むねたけ)に国学をもってつかえる。「万葉集」を中心に古典を研究,日本の古代精神(古意(いにしえごころ)・古道)の意義を強調した。また万葉風の歌をよみ,歌壇に影響をあたえた。門人に本居宣長(もとおり-のりなが)らがいる。明和6年10月30日死去。73歳。遠江(とおとうみ)(静岡県)出身。本姓は岡部。名は春栖,政躬,政藤。通称は参四など。別号に県居(あがたい)。著作に「国意考」「万葉考」など。
【格言など】いにしえは,丈夫(ますらお)はたけくおおしきを,むねとすれば,歌もしかり(「歌意考」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

賀茂真淵

没年:明和6.10.30(1769.11.27)
生年:元禄10.3.4(1697.4.24)
江戸中期の国学者。遠江国(静岡県)浜松在の人。岡部氏。通称は三四のち衛士,名は春栖,淵満などで,晩年の田舎風の住居にちなみ,県居と号した。本家は伊場村の賀茂神社の神職で,その遠祖は京都上賀茂神社の社家に繋がり,勅撰歌人の賀茂成助が出た名家である。母は竹山氏。はじめ従兄岡部政長の婿養子となるが,その翌年に愛妻と死別したため,のちに本陣の梅谷氏の養子となる。漢学を太宰春台の弟子渡辺蒙庵に,国典を五社神社の森暉昌らに学び諏訪神社の杉浦国顕 らと共に歌会を張行し,詠歌に励んだ。さらに荷田春満 に入門し,師を慕って上京したが,3年ほどで春満が病死したため,いったん故郷に帰る。しかし俗務を厭い,翌元文2(1737)年には単身江戸に出て処士生活を始めた。当初は荷田在満荷田信名など春満の係累を頼ったが,歌学者として一廉の評判を得るに伴い,富商村田春道町奉行与力加藤枝直の後援を受け,門人も次第に増えた。そしてかねて在満と田安宗武の間に起こった『国歌八論』論争に参画したのをきっかけに宗武の眷顧を蒙り,延享3(1746)年50歳のとき,正式に和学御用として召し抱えられる。その間,宗武の要請を受け,数多くの著作をなす。宝暦10(1760)年に隠居。同13年に大和旅行を行い,帰途,伊勢国(三重県)松坂で本居宣長の訪問を受け『古事記』研究を託した話は有名。門人には楫取魚彦,加藤宇万伎,荒木田久老,加藤千蔭,村田春海らのほか,油谷倭文子,土岐筑波子,鵜殿余野子の「三才女」をはじめとする女流も少なくない。 代表的な著述としては,まず枕詞の研究『冠辞考』(1757)があり,音韻変化に基づく延約説を駆使した解釈は旧来の常識を打破するもので,古代文学の研究を大きく前進せしめた。また『万葉考』は真淵がもっとも精力を傾けた著作であるが,巻序にとらわれない独自の成立説を主張したのをはじめ,実感と考証に裏付けられた先鋭な学説は人々に多大な刺激を与えた。その他,『祝詞考』をはじめ『古今和歌集打聴』『源氏物語新釈』『伊勢物語古意』などを次々と著したが,特に『古意』において展開された物語寓言説は,おのずから建部綾足らの読本創作を促すことになった。また五意考のうち『語意考』に示される五十音図は,古言の縦横な音韻変化の根拠となるものであり,『国意考』における激しい儒教非難は老荘思想への接近を感じさせる。歌人としての真淵は,後年『新学』の主張を実践し,音調に優れ,かつ感情の素直な表出である万葉風の和歌を一貫して詠み続け,当時の歌壇に甚大な影響をおよぼした。真淵の出現を以て江戸の和歌史を前後期に分かつ所以である。その歌文は,春海編の『賀茂翁家集』(1806)に収められるところがもっとも組織立っている。<著作>続群書類従完成会『賀茂真淵全集』<参考文献>小山正『賀茂真淵伝』,井上豊『賀茂真淵の業績と門流』

(鈴木淳)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

かものまぶち【賀茂真淵】

1697‐1769(元禄10‐明和6)
江戸中期の国学者。遠江国浜松庄岡部郷に生まれる。通称三四,衛士,名は政躬,政藤,春栖,淵満と変えている。県居(あがたい)と号す。生家は賀茂神社の神職岡部家の分家で,京の賀茂神社の摂社の神職片岡師重を始祖とする。真淵は同族岡部政長の養子となるが,1724年(享保9)妻と死別し実家にもどり,翌年浜松の脇本陣梅谷家に入婿となる。32年実父政信が没したのち,梅谷家を出て学問の道にすすむ。真淵は11歳より,荷田春満(かだのあずままろ)の門人杉浦国頭(くにあきら)について手習いをはじめる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

賀茂真淵
かものまぶち

[生]元禄10(1697).3.4. 遠江,浜松
[没]明和6(1769).10.30. 江戸
江戸時代中期の国学者,歌人。神職岡部政信の次男。俗姓は岡部,幼名は三四 (そうし) ,のち実名を政躬,真淵などと称し,衛士,県主,県居大人などと号した。 30歳の頃,浜松の脇本陣梅谷家の養子となった。

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世界大百科事典内の賀茂真淵の言及

【歌意考】より

…歌論書。賀茂真淵著。1764年(明和1)成立。…

【加藤枝直】より

…1718年(享保3)江戸に出,大岡忠相の配下となり,与力を務めた。幼時より和歌に親しんだが,江戸に出てきた賀茂真淵と相知り,その門人となるとともに師の保護者ともなり,自邸内に師の家を建てそこに住まわせた。80余歳のとき自撰歌をまとめ《東(あずま)歌》(6巻)と題し,子の千蔭がこれを刊行した。…

【歌論】より

…長流の師は《万葉集》を尊重した木下長嘯子である。つまり,長嘯子,長流,契沖という《万葉集》尊重の立場に立つ系譜が成立しつつあったのであり,こうしたなかから,田安宗武,賀茂真淵らが出たのである。宗武,真淵は論争もしていて,その〈歌論〉には差異があるが,権威主義的堂上歌学の否定,万葉尊重の大筋では一致していた。…

【源氏物語】より

…これらの古注類は考証や鑑賞面に大部のすぐれた成果を挙げてはいるものの,物語の本質論や文芸的理解となると,当時の儒仏思想の功利的な教戒観に左右されがちであったのはやむをえない。江戸時代に入ると,国学の勃興とともにいわゆる〈新注〉の時代となり,契沖の《源注拾遺》や賀茂真淵の《源氏物語新釈》がいずれも文献学的実証を志向し,ついで本居宣長の《源氏物語玉の小櫛》は,その総論に,物語の本質は〈もののあはれ〉すなわち純粋抒情にありとする画期的な論を立てて,中世の功利主義的物語観を脱却した。しかし宣長以後は幕藩体制下,儒教倫理による《源氏物語》誨淫(かいいん)説の横行によって,その研究もふるわず,わずかに萩原広道の《源氏物語評釈》の精密な読解が注目されるにすぎない。…

【国学】より

…契沖に深く傾倒した伏見の神官荷田春満(かだのあずままろ)は,その万葉研究を受けつぐ一方,《創学校啓》(1728成立)の中で,〈古語通ぜざれば古義明らかならず,古義明らかならざれば古学復せず〉といっているように,契沖の文献学的方法に加えるに独自の復古主義をもってした。この立場は,晩年の春満に師事し,主として宝暦年間(1751‐64)に活躍した賀茂真淵(かものまぶち)にいたって,国学としての最初の体系化がこころみられることになる。 真淵は主著《万葉考》を執筆のかたわら,《国意考》《歌意考》《文意考》《語意考》《書意考》のいわゆる〈五意〉によって,古道・和歌・文章・言語・古文献などの諸学問分野がけっきょくは一つの目標に統合されてゆく構想を提示している。…

【短歌】より

…前期は,豊臣秀吉の一族で家集《挙白(きよはく)集》のある木下長嘯子(ちようしようし),長嘯子の流れをくみ,ともに万葉研究に深い関心を示した下河辺長流(しもこうべちようりゆう)と契沖(けいちゆう)らが短歌史の上でも注目すべき作を残した。中期に入って,《万葉集》の精神,用語を積極的にとり入れることを主張する賀茂真淵が登場して,以後の短歌史に大きな影響を及ぼした。真淵の門流は県居(あがたい)派と呼ばれたが,やがて分派し,〈江戸派〉(加藤千蔭,村田春海ら),〈鈴屋(すずのや)派〉(本居宣長,加納諸平ら)としてともに競い合った。…

【にひまなび】より

賀茂真淵の古学論。1765年(明和2)成立。…

【誠】より

…そして,芸術の分野では,あらゆる対象の中に宇宙の生命(小宇宙)を認め,その生命と感合することで自己の本性を明らかにしようとする芭蕉の〈風雅の誠〉論,あるいは〈まことの外に俳諧なし〉(《独ごと》)と喝破した鬼貫の俳諧論を生み出している。一方,和歌の世界でも新しい動きがみられ,復古神道の荷田春満(かだのあずままろ)は人情のまことを重んじ,その門下の賀茂真淵は心に思うことを理・非理にとらわれることなくそのまま表現すべきだという〈歌の真言(まこと)〉説を主張するようになった。その真淵のまこと説は以後その門流に広く継承されていくが,下っては〈今わが思う心の真実を歌う〉ことを説いた小沢蘆庵(おざわろあん),〈自分の真心の誠をやすらかに調べととのえる〉ことを説いた香川景樹(かがわかげき)らの歌論となった。…

【万葉考】より

…注釈書。賀茂真淵の著。1768年(明和5)成立。…

【本居宣長】より

…《排蘆小船》は《石上私淑言(いそのかみのささめごと)》(1763成立)の,《紫文要領》は《源氏物語玉の小櫛(たまのおぐし)》(1796成立)の草稿にあたるが,京都遊学を終えた宣長はすでに紛れもなく一家をなす独歩の学者であった。 33歳のとき,旅の途次松坂に泊まった賀茂真淵と初めてあい,やがて入門する。翌年《古事記伝》(1798完成)の稿を起こしているのは,真淵の志を継ごうとしたからであろう。…

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