賀茂真淵(読み)カモノマブチ

デジタル大辞泉 「賀茂真淵」の意味・読み・例文・類語

かも‐の‐まぶち【賀茂真淵】

[1697~1769]江戸中期の国学者・歌人。遠江とおとうみの人。岡部氏。号、県居あがたい荷田春満かだのあずままろに学び、国学四大人の一人といわれる。田安宗武に仕え、広く古典を研究し、復古主義を唱えた。門人に本居宣長らがいる。著「万葉考」「祝詞考」「冠辞考」「歌意考」「国意考」「賀茂翁家集」など。
[補説]門人は県門けんもんと称される。→県門の三才女県門の四天王

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精選版 日本国語大辞典 「賀茂真淵」の意味・読み・例文・類語

かも‐の‐まぶち【賀茂真淵】

  1. 江戸中期の国学者、歌人。遠江の人。岡部氏。名は春栖(はるすみ)。通称衛士。号県居(あがたい)。荷田春満(かだのあずままろ)に学び、田安宗武に仕える。万葉集を主とする古典の研究を行ない、古道の復活を唱道。学風は実証的であると同時に独創性に富む。また万葉調の歌にすぐれた。門弟に本居宣長、加藤千蔭など。主著「万葉考」「国意考」「歌意考」「冠辞考」「祝詞考」など。元祿一〇~明和六年(一六九七‐一七六九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「賀茂真淵」の意味・わかりやすい解説

賀茂真淵(かもまぶち)
かもまぶち
(1697―1769)

江戸中期の国学者、歌人。元禄(げんろく)10年3月4日、遠江(とおとうみ)国敷智(しきち)郡浜松庄(しょう)伊場村(もと岡部郷、現、静岡県浜松市中区東伊場)に生まれる。神職岡部政信(おかべまさのぶ)の子(通説三男、真淵の自記では次男)で、名は初め三四、庄助などといい、田安(たやす)家に出仕してから衛士(えじ)。賀茂真淵は雅名で、主として晩年に用いた。屋号を県居(あがたい)という。初め姉婿政盛に養われ、のち従兄(いとこ)政長の養子となる(政長は浜松藩松平家に仕えた武士で、物頭役などを務めた)。妻に死別し、29歳で浜松の脇本陣(わきほんじん)梅谷甚三郎(うめやじんざぶろう)の養子となる。30歳のころから京都伏見の荷田春満(かだあずままろ)に従学し始めたが、かたわら浜松の杉浦国頭(すぎうらくにあきら)(1678―1740)や森暉昌(もりてるまさ)(1685―1752)らに国歌を、渡辺蒙庵(わたなべもうあん)(1687―1775)に漢学を学んで、東海地方の歌人や詩人として名を知られた。1733年(享保18)37歳のとき上京して、春満のもとに長期の遊学を始めたが、1736年(元文1)帰省中春満の死にあい、翌1737年江戸に出府、処士生活を送りながら学事に励んだ。1746年(延享3)50歳のとき、在満(ありまろ)(春満の養嗣子(ようしし))の後を受けて田安宗武(たやすむねたけ)に和学で仕えることになり、生活も落ち着き研究も進境をみせる。1760年(宝暦10)64歳で隠居して、以後、著述生活を主として、多くの著書を残した。1763年大和(やまと)巡りの旅に出、伊勢(いせ)の松坂で本居宣長(もとおりのりなが)に会った。翌1764年住居を浜町に移し、県居と号した。明和(めいわ)6年10月30日、73歳で没す。浜松市中区東伊場の県居神社に祀(まつ)られ、墓碑は東京都品川区東海寺墓地と浜松市にある。

 真淵は契沖(けいちゅう)や春満の後を受けて、独自の国学を築いた。学問は古意、古歌の研究を主眼として広範にわたるが、古代の古典をとくに尊んで、『万葉考』『祝詞考(のりとこう)』(1768成立)以下多くの注釈を残し、『国意考』(1765成立)『歌意考』(1764成立)『語意考』(1769成立)などのいわゆる「五意考(ごいこう)」、『にひまなび』(1765成立)などの論書もある。和歌においては万葉調の意義を強調し、万葉風の作歌に特色を発揮して、門下からも万葉調歌人を輩出した。真淵の歌文集としては、村田春海(むらたはるみ)編『賀茂翁家集』(1806)がある。田安宗武に影響を与えたほか、門下は本居宣長をはじめ県門十二大家や県門三才女油谷倭文子(ゆやしずこ)(1733―1752)、土岐筑波子(ときつくばこ)、鵜殿余野子(うどのよのこ)(1729―1788))など、多士済々である。

[井上 豊 2018年10月19日]

『『賀茂真淵全集』全28巻(1977~ ・続群書類従完成会)』『小山正著『賀茂真淵伝』(1938・春秋社/複製増補版・1980・世界聖典刊行協会)』『井上豊著『賀茂真淵の業績と門流』(1966・風間書房)』『寺田泰政著『賀茂真淵』(1979・浜松史跡調査顕彰会)』



賀茂真淵(かものまぶち)
かものまぶち

賀茂真淵

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百科事典マイペディア 「賀茂真淵」の意味・わかりやすい解説

賀茂真淵【かものまぶち】

江戸中期の国学者,歌人。俗姓は岡部。号は県居(あがたい)。遠江(とおとうみ)国の禰宜(ねぎ)の子。浜松の脇本陣梅谷家に入婿後,上洛し荷田春満(かだのあずままろ)門下となり古典古語を研究。春満没後江戸へ出る。村田春海加藤千蔭らを門下とする。1746年田安宗武に仕え,1760年隠居。1763年松阪で本居宣長が入門。主として《万葉集》の研究を通じ古道を復活させようとし,復古主義を唱道。国学の基礎を築く。歌は万葉調を尊重。主著は《万葉考》《にひまなび》《冠辞考》《国意考》《歌意考》《祝詞考》,家集は《賀茂翁家集》。
→関連項目上田秋成香川景樹荷田在満楫取魚彦鹿持雅澄観世元章国意考国学(近世)古道学菅江真澄建部綾足塙保己一平賀元義

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改訂新版 世界大百科事典 「賀茂真淵」の意味・わかりやすい解説

賀茂真淵 (かものまぶち)
生没年:1697-1769(元禄10-明和6)

江戸中期の国学者。遠江国浜松庄岡部郷に生まれる。通称三四,衛士,名は政躬,政藤,春栖,淵満と変えている。県居(あがたい)と号す。生家は賀茂神社の神職岡部家の分家で,京の賀茂神社の摂社の神職片岡師重を始祖とする。真淵は同族岡部政長の養子となるが,1724年(享保9)妻と死別し実家にもどり,翌年浜松の脇本陣梅谷家に入婿となる。32年実父政信が没したのち,梅谷家を出て学問の道にすすむ。真淵は11歳より,荷田春満(かだのあずままろ)の門人杉浦国頭(くにあきら)について手習いをはじめる。22年に春満は江戸下向の途中,杉浦家に滞在,このとき真淵は春満に会っているはずである。真淵は20歳をこえたのち,渡辺蒙庵に漢学を学ぶ。蒙庵は太宰春台に古文辞学を学び,老荘の思想に関心のふかい学者である。真淵は国頭を通して春満の古学を知り,蒙庵を通して荻生徂徠の古文辞学や老荘の思想の感化を受けた。このことが真淵の学問と思想の形成に大きく影響した。33年ころ真淵は上京して,春満に学ぶ。35年4月に春満の家で真淵は《百人一首》の講義をする。36年7月に春満は没し,翌年の春真淵は荷田信名(のぶな)や荷田在満がいる江戸に下る。信名から《万葉集》について,在満から律令有職(ゆうそく)について学んだであろう。真淵は江戸に到着して間もなく百人一首評会を催し,翌38年8月より万葉会,40年(元文5)に《源氏物語》の講義をはじめる。42年9月田安宗武の求めにより,《古今集左注論》を草し,11月に《国歌八論余言拾遺》を書いた。46年より田安家に和学御用として出仕,古代に関心のふかい宗武に仕えたことから,真淵の古代学は急速に成長した。真淵は儒教や仏教に対しては鋭く批評したが,《老子》には共鳴するところがあり,自然と生命とを尊重した。しかし理知を排したために,人間の尊厳を十分に樹立できなかった。真淵は古学の目的を,〈上代乃道〉を究明し,ひたぶるにして直(なお)き古代精神に復帰することとした。主著に,平安朝文学の注釈《伊勢物語古意》《源氏物語新釈》,《万葉集》の注釈《冠辞考》《万葉考》,真淵の思想を語る《にひまなび》《国意考》《歌意考》がある。主な門人には,加藤千蔭,村田春海,楫取魚彦(かとりなひこ),建部綾足,本居宣長,荒木田久老,塙保己一などがいる。
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朝日日本歴史人物事典 「賀茂真淵」の解説

賀茂真淵

没年:明和6.10.30(1769.11.27)
生年:元禄10.3.4(1697.4.24)
江戸中期の国学者。遠江国(静岡県)浜松在の人。岡部氏。通称は三四のち衛士,名は春栖,淵満などで,晩年の田舎風の住居にちなみ,県居と号した。本家は伊場村の賀茂神社の神職で,その遠祖は京都上賀茂神社の社家に繋がり,勅撰歌人の賀茂成助が出た名家である。母は竹山氏。はじめ従兄岡部政長の婿養子となるが,その翌年に愛妻と死別したため,のちに本陣の梅谷氏の養子となる。漢学を太宰春台の弟子渡辺蒙庵に,国典を五社神社の森暉昌らに学び諏訪神社の杉浦国顕 らと共に歌会を張行し,詠歌に励んだ。さらに荷田春満 に入門し,師を慕って上京したが,3年ほどで春満が病死したため,いったん故郷に帰る。しかし俗務を厭い,翌元文2(1737)年には単身江戸に出て処士生活を始めた。当初は荷田在満や荷田信名など春満の係累を頼ったが,歌学者として一廉の評判を得るに伴い,富商村田春道や町奉行与力加藤枝直の後援を受け,門人も次第に増えた。そしてかねて在満と田安宗武の間に起こった『国歌八論』論争に参画したのをきっかけに宗武の眷顧を蒙り,延享3(1746)年50歳のとき,正式に和学御用として召し抱えられる。その間,宗武の要請を受け,数多くの著作をなす。宝暦10(1760)年に隠居。同13年に大和旅行を行い,帰途,伊勢国(三重県)松坂で本居宣長の訪問を受け『古事記』研究を託した話は有名。門人には楫取魚彦,加藤宇万伎,荒木田久老,加藤千蔭,村田春海らのほか,油谷倭文子,土岐筑波子,鵜殿余野子の「三才女」をはじめとする女流も少なくない。 代表的な著述としては,まず枕詞の研究『冠辞考』(1757)があり,音韻変化に基づく延約説を駆使した解釈は旧来の常識を打破するもので,古代文学の研究を大きく前進せしめた。また『万葉考』は真淵がもっとも精力を傾けた著作であるが,巻序にとらわれない独自の成立説を主張したのをはじめ,実感と考証に裏付けられた先鋭な学説は人々に多大な刺激を与えた。その他,『祝詞考』をはじめ『古今和歌集打聴』『源氏物語新釈』『伊勢物語古意』などを次々と著したが,特に『古意』において展開された物語寓言説は,おのずから建部綾足らの読本創作を促すことになった。また五意考のうち『語意考』に示される五十音図は,古言の縦横な音韻変化の根拠となるものであり,『国意考』における激しい儒教非難は老荘思想への接近を感じさせる。歌人としての真淵は,後年『新学』の主張を実践し,音調に優れ,かつ感情の素直な表出である万葉風の和歌を一貫して詠み続け,当時の歌壇に甚大な影響をおよぼした。真淵の出現を以て江戸の和歌史を前後期に分かつ所以である。その歌文は,春海編の『賀茂翁家集』(1806)に収められるところがもっとも組織立っている。<著作>続群書類従完成会『賀茂真淵全集』<参考文献>小山正『賀茂真淵伝』,井上豊『賀茂真淵の業績と門流』

(鈴木淳)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「賀茂真淵」の意味・わかりやすい解説

賀茂真淵
かものまぶち

[生]元禄10(1697).3.4. 遠江,浜松
[没]明和6(1769).10.30. 江戸
江戸時代中期の国学者,歌人。神職岡部政信の次男。俗姓は岡部,幼名は三四 (そうし) ,のち実名を政躬,真淵などと称し,衛士,県主,県居大人などと号した。 30歳の頃,浜松の脇本陣梅谷家の養子となった。早くから文学に親しみ,和漢の学を修めて,荷田派の古学や古文辞学派の影響を受け,特に漢詩や和歌に才能を発揮した。ときどき上京して荷田春満に学び,40歳の頃,江戸に出て浪々の生活をおくりつつ学事に努めた。 50歳のとき,和学をもって田安宗武に仕え,古典の研究,古道の復興,古代歌調の復活に没頭,特に『万葉集』の研究にめざましい業績を示し,万葉調歌人としても特色をみせた。本居宣長,荒木田久老,村田春海,加藤千蔭,楫取魚彦など国学,和歌双方にわたり門下が多い。国学の体系を示す論著である『歌意考』 (1764) ,『国意考』 (65) ,『語意考』 (69) ,注釈書の『祝詞考』 (68) ,『万葉考』 (68) などが代表的な著作である。その他の著作『伊勢物語古意』 (53) ,『冠辞考』 (57) ,『源氏物語新釈』 (58) ,『古今和歌集打聴』 (64) ,『国歌八論憶説』『岡部日記』『後の岡部日記』など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「賀茂真淵」の解説

賀茂真淵
かものまぶち

1697.3.4~1769.10.30

江戸中期の国学者。岡部氏。通称は三四(さんし)・衛士,名は淵満(ふちまろ)ほか,号は県居(あがたい)。遠江国敷智(ふち)郡伊場村の人で,本家は同地賀茂神社の神職。浜松の杉浦国頭(くにあきら)や森暉昌(てるまさ)らに国典を学んでともに歌詠にはげみ,太宰春台門の渡辺蒙庵に詩作を学んだ。のち荷田春満(かだのあずままろ)に学ぶためしばしば上京。師の没後,1737年(元文2)単身で出府し,学業の研鑽を積むうちにようやく学名もあがり,門下もふえた。田安宗武と荷田在満の「国歌八論」論争を契機に田安家の和学御用として抱えられ,宗武の要請で数々の著述をなす。万葉調の歌をよくし,当時の歌壇に清新な刺激を与えた。著書「冠辞考」「万葉考」「祝詞考」「伊勢物語古意」「国意考」「新学(にいまなび)」「賀茂翁家集」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「賀茂真淵」の解説

賀茂真淵 かもの-まぶち

1697-1769 江戸時代中期の国学者,歌人。
元禄(げんろく)10年3月4日生まれ。荷田春満(かだの-あずままろ)にまなぶ。春満の死後江戸にでて,延享3年田安宗武(むねたけ)に国学をもってつかえる。「万葉集」を中心に古典を研究,日本の古代精神(古意(いにしえごころ)・古道)の意義を強調した。また万葉風の歌をよみ,歌壇に影響をあたえた。門人に本居宣長(もとおり-のりなが)らがいる。明和6年10月30日死去。73歳。遠江(とおとうみ)(静岡県)出身。本姓は岡部。名は春栖,政躬,政藤。通称は参四など。別号に県居(あがたい)。著作に「国意考」「万葉考」など。
【格言など】いにしえは,丈夫(ますらお)はたけくおおしきを,むねとすれば,歌もしかり(「歌意考」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「賀茂真淵」の解説

賀茂真淵
かものまぶち

1697〜1769
江戸中期の国学者・歌人
号は県主 (あがたぬし) ・県居大人 (あがたいのうし) 。遠江 (とおとうみ) (静岡県)浜松の神官の子。37歳で上京し,荷田春満 (かだのあずままろ) の門で国学を学んだ。春満没後41歳で江戸に出,50歳のとき田安宗武に仕えた。『万葉集』を研究し,『万葉考』『歌意考』『にひまなび』『国意考』などを著し,歌人として「万葉調」を主唱,江戸派歌壇の重鎮となった。加藤千蔭・村田春海・本居宣長・荒木田久老 (ひさおゆ) などはその門下。

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367日誕生日大事典 「賀茂真淵」の解説

賀茂真淵 (かものまぶち)

生年月日:1697年3月4日
江戸時代中期の国学者;歌人
1769年没

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世界大百科事典(旧版)内の賀茂真淵の言及

【歌意考】より

…歌論書。賀茂真淵著。1764年(明和1)成立。…

【加藤枝直】より

…1718年(享保3)江戸に出,大岡忠相の配下となり,与力を務めた。幼時より和歌に親しんだが,江戸に出てきた賀茂真淵と相知り,その門人となるとともに師の保護者ともなり,自邸内に師の家を建てそこに住まわせた。80余歳のとき自撰歌をまとめ《東(あずま)歌》(6巻)と題し,子の千蔭がこれを刊行した。…

【歌論】より

…長流の師は《万葉集》を尊重した木下長嘯子である。つまり,長嘯子,長流,契沖という《万葉集》尊重の立場に立つ系譜が成立しつつあったのであり,こうしたなかから,田安宗武,賀茂真淵らが出たのである。宗武,真淵は論争もしていて,その〈歌論〉には差異があるが,権威主義的堂上歌学の否定,万葉尊重の大筋では一致していた。…

【源氏物語】より

…これらの古注類は考証や鑑賞面に大部のすぐれた成果を挙げてはいるものの,物語の本質論や文芸的理解となると,当時の儒仏思想の功利的な教戒観に左右されがちであったのはやむをえない。江戸時代に入ると,国学の勃興とともにいわゆる〈新注〉の時代となり,契沖の《源注拾遺》や賀茂真淵の《源氏物語新釈》がいずれも文献学的実証を志向し,ついで本居宣長の《源氏物語玉の小櫛》は,その総論に,物語の本質は〈もののあはれ〉すなわち純粋抒情にありとする画期的な論を立てて,中世の功利主義的物語観を脱却した。しかし宣長以後は幕藩体制下,儒教倫理による《源氏物語》誨淫(かいいん)説の横行によって,その研究もふるわず,わずかに萩原広道の《源氏物語評釈》の精密な読解が注目されるにすぎない。…

【国学】より

…契沖に深く傾倒した伏見の神官荷田春満(かだのあずままろ)は,その万葉研究を受けつぐ一方,《創学校啓》(1728成立)の中で,〈古語通ぜざれば古義明らかならず,古義明らかならざれば古学復せず〉といっているように,契沖の文献学的方法に加えるに独自の復古主義をもってした。この立場は,晩年の春満に師事し,主として宝暦年間(1751‐64)に活躍した賀茂真淵(かものまぶち)にいたって,国学としての最初の体系化がこころみられることになる。 真淵は主著《万葉考》を執筆のかたわら,《国意考》《歌意考》《文意考》《語意考》《書意考》のいわゆる〈五意〉によって,古道・和歌・文章・言語・古文献などの諸学問分野がけっきょくは一つの目標に統合されてゆく構想を提示している。…

【短歌】より

…前期は,豊臣秀吉の一族で家集《挙白(きよはく)集》のある木下長嘯子(ちようしようし),長嘯子の流れをくみ,ともに万葉研究に深い関心を示した下河辺長流(しもこうべちようりゆう)と契沖(けいちゆう)らが短歌史の上でも注目すべき作を残した。中期に入って,《万葉集》の精神,用語を積極的にとり入れることを主張する賀茂真淵が登場して,以後の短歌史に大きな影響を及ぼした。真淵の門流は県居(あがたい)派と呼ばれたが,やがて分派し,〈江戸派〉(加藤千蔭,村田春海ら),〈鈴屋(すずのや)派〉(本居宣長,加納諸平ら)としてともに競い合った。…

【にひまなび】より

賀茂真淵の古学論。1765年(明和2)成立。…

【誠】より

…そして,芸術の分野では,あらゆる対象の中に宇宙の生命(小宇宙)を認め,その生命と感合することで自己の本性を明らかにしようとする芭蕉の〈風雅の誠〉論,あるいは〈まことの外に俳諧なし〉(《独ごと》)と喝破した鬼貫の俳諧論を生み出している。一方,和歌の世界でも新しい動きがみられ,復古神道の荷田春満(かだのあずままろ)は人情のまことを重んじ,その門下の賀茂真淵は心に思うことを理・非理にとらわれることなくそのまま表現すべきだという〈歌の真言(まこと)〉説を主張するようになった。その真淵のまこと説は以後その門流に広く継承されていくが,下っては〈今わが思う心の真実を歌う〉ことを説いた小沢蘆庵(おざわろあん),〈自分の真心の誠をやすらかに調べととのえる〉ことを説いた香川景樹(かがわかげき)らの歌論となった。…

【万葉考】より

…注釈書。賀茂真淵の著。1768年(明和5)成立。…

【本居宣長】より

…《排蘆小船》は《石上私淑言(いそのかみのささめごと)》(1763成立)の,《紫文要領》は《源氏物語玉の小櫛(たまのおぐし)》(1796成立)の草稿にあたるが,京都遊学を終えた宣長はすでに紛れもなく一家をなす独歩の学者であった。 33歳のとき,旅の途次松坂に泊まった賀茂真淵と初めてあい,やがて入門する。翌年《古事記伝》(1798完成)の稿を起こしているのは,真淵の志を継ごうとしたからであろう。…

※「賀茂真淵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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