長野・愛知・静岡三県を流れる一級河川。長野県
天竜川が本県内に流入した痕跡は二〇〇余万年前の鮮新世の地層に記録されている。天竜川は花崗岩・片麻岩など伊那谷に分布する岩石を運んでくる。これが本県内の川と違う点である。この特徴を目安にすると、
その契機は六万年前からの最終氷期(寒冷期)である。海面は低下し、一万八千年前には最も低位となり、現在よりも一三〇メートルも低まった。県内の各河川の川床は低くなり、大きな深い谷ができた。海岸線も大陸棚の外縁まで退き、天竜川も現河口辺りで現地表下九〇メートルの深さを流れた。その後、気候は温暖化に向かい、海面は逆に上昇し始め六千年前にはほぼ現位置に落着いた。このため天竜川の深い谷に海水が浸入して入江をつくった。入江の奥では大量の砂礫が絶えず流入して埋立をする。両者のせめぎ合いで入江の浸入の限度が現浜北市
諏訪湖から現上伊那郡
飯田市域の南部からは赤石山系の山地に入り、花崗岩・片麻岩などの硬い岩石の弱所を貫いて流れる。ここに名勝天竜峡があり、また舟下り観光で知られた天竜渓谷が存在する。
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長野県諏訪湖に源を発し,静岡県西部を南流して遠州灘に注ぐ川。幹川流路延長213km,全流域面積5090km2。赤石山脈と木曾山脈の間を流下するため,流域の形状は南北に細長く,両山脈から多くの中小支流が合流する。諏訪湖から飯田市付近までの上流は伊那盆地を流下し,三峰(みぶ)川,小渋川,太田切川などの支流を合流する。伊那盆地では,水田に利用されているはんらん原の両側に,数段の大規模な河岸段丘が発達し,さらにその上に扇状地が形成される。とくに西岸は花コウ岩性の地質からなる木曾山脈からの堆積物が多く,扇状地や段丘の発達が顕著で,下位段丘には飯田,伊那,駒ヶ根などの中心集落をはじめ,多くの集落が立地する。飯田市以南は赤石山脈と斜交するため,天竜峡と呼ばれる先行性の渓谷をつくる。中央構造線と交わる静岡県浜松市の旧佐久間町で大きく蛇行し,愛知県から大千瀬川,静岡県内で水窪(みさくぼ)川,気田(けた)川を合流して南流する。この同市の旧天竜市までの渓谷地帯は,中世以来,御館(おやかた)・被官からなる独特の村落構造をもつ山村が形成され,固有の民俗も伝えられてきた。しかし第2次大戦後,国土総合開発の一環として佐久間ダム,秋葉ダムが建設され,多くの移住者を出した。旧天竜市二俣(ふたまた)を抜けると遠州灘までの間は平たん地を流下し,天竜川の旧はんらん原である東側の磐田原と西側の三方(みかた)原の間を南流する。
天竜川はかつてはんらんを繰り返したため,住民を苦しめてきたが,明治中期に金原明善によって静岡県浜松市の旧竜山村,旧天竜市の山地を中心に治山治水のための造林事業がすすめられた。これによって育林技術が定着し,日清・日露両戦争時に農民が焼畑跡地を造林する形で天竜林業地域が形成された。下流の浜松市に発達した楽器工場はかつて天竜川水系の木材資源を材料として成立した。
天竜川の水は,流域の各地にダムや用水が建設されたことによって効率的に利用されている。伊那盆地では西天竜用水(1928完成)の建設により西岸の河岸段丘の水田化がすすめられ,佐久間ダムからは愛知県東部の豊川用水へ分水が行われている。また,下流の両側に広がる台地には磐田・三方原両用水が開通し,既存の茶園や果樹園など乏水性の土地利用に加え,施設園芸も盛んになった。旧佐久間町付近まで流路と並行してJR飯田線が通じる。
執筆者:藤田 佳久
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長野県諏訪湖(すわこ)に源をもち、静岡県浜松市東部で遠州灘(えんしゅうなだ)に注ぐ、長野・愛知・静岡の3県に流域をもつ河川。延長213キロメートル、流域面積5090平方キロメートル。一級河川。おもな支流に三峰(みぶ)川、小渋川、遠山川、水窪(みさくぼ)川、気田(けた)川などがある。諏訪湖の西、釜口水門(かまぐちすいもん)からの流れは、辰野(たつの)から飯田(いいだ)までの間は伊那谷(いなだに)の盆地を南流。両岸には扇状地、河岸段丘、田切(たぎり)地形が形成され、果樹園や畑地が多く農業用水路も開かれ水田化が進んでいる。伊那谷を過ぎると先行性河川の性質をもつ天竜峡に入り、曲流と渓谷に特色をもつ。慶長(けいちょう)年間(1596~1615)角倉了以(すみのくらりょうい)が天竜川の水路を開き、舟運を進め、木材の筏流し(いかだながし)も行われた。時又(ときまた)、西渡(にしど)、鹿島(かじま)などは河岸(かし)、集散地として栄えた。明治期には久根(くね)、峰の沢鉱山の鉱石運搬や、森林資源の開発とともに流域の電源開発も進み、昭和10年代に平岡、泰阜(やすおか)ダム、第二次世界大戦後は天竜東三河特定地域総合開発に添い、佐久間、秋葉ダム、さらに船明(ふなぎら)ダムも完成。発電、工業、生活用水源として豊川(とよがわ)用水、磐田(いわた)用水、三方原(みかたはら)用水に水資源を供給するが、堆砂(たいさ)による河床変動などダム災害も発生した。浜松市天竜区二俣(ふたまた)以南の下流平野は氾濫(はんらん)や乱流を繰り返し三方原と磐田原台地との間に沖積地が形成され、米作やナシ、カキ、花木、茶などが栽培される。河口の磐田市掛塚(かけつか)は東海道本線が開通するまで掛塚湊(みなと)として栄えた。河口西方に遠州浜や中田島(なかたじま)砂丘が形成されたが海岸侵食もみられる。
[北川光雄]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…古代には東山道が通ったが,近世には中山道からはずれ中馬(ちゆうま)運送による商業が発展した。盆地の中央を天竜川が流れ,東西の山地から三峰(みぶ)川,小渋川,遠山川,松川など多くの支流が合流している。これらの川は利水にも役立っているが,一方,〈暴れ天竜〉の名が示すように水害が多いことでも知られている。…
…信濃川のみならず,第2次世界大戦後,とくに中部山岳地方から流れ下る河川の河口部周辺の海岸の決壊が目だってきた。天竜川などがその代表であるが,上流部に大きなダムができて土砂の下流へ流れる量が減る一方,下流部で大量の河床砂れきを建設材料として採取したため,河口部から海へ出る土砂量が減少したのが原因とみられている。日本の激しかった経済成長が大ダムの建設や建設材料の急激な需要増を招き,それによって河川の様相が一変させられたのである。…
※「天竜川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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