木脇村(読み)きわきむら

日本歴史地名大系 「木脇村」の解説

木脇村
きわきむら

[現在地名]国富町木脇

本庄ほんじよう村の東に位置し、同村との境を本庄川が南流する。南部に飛地がある。松井本「日向記」に「始絹分今改木脇」とあり、「日向地誌」には木ノ脇村とある。

〔中世〕

「日向記」の伝えるところによれば、伊東祐時の八男祐頼は諸県庄絹分きぬわけを所領とし、木脇殿と称したという。貞治七年(一三六八)正月一八日の大光寺年貢諸日記(大光寺文書)は前年分の大光だいこう(現佐土原町)の年貢納入等を記録した結解状で、守永米とともに木脇米一石三升がみえる。田島たじま(現佐土原町)年貢米に続く項目に広原年貢などの年貢事項と区別してみえることから、小規模の給分・免田が設定されていたものかと推測される。永享六年(一四三四)九月、島津氏は北上し木脇に陣を布いた。伊東方は土持氏が出陣して対峙した。一〇月木脇の却生寺(興聖寺か)門前合戦となり、弓削石見守らが討死した。この合戦は一〇月一八日に終了し、桑津留合戦とよばれた。文明一六年(一四八四)島津氏の内訌による飫肥おびをめぐる櫛間伊作氏らの合戦に、伊東氏が飫肥に遠征した際、木脇の衆は伊東祐国の軍勢に付けられていた。さらに天文二年(一五三三)の伊東氏の内訌の際、木脇は伊東祐武の嫡男左兵衛佐とは一線を画し、伊東祐清が権限を掌握したのち祐清方となっているが、当時の木脇城主野村氏は左兵衛佐方となったので、祐清方に攻め落されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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