木見村
きみむら
[現在地名]倉敷市木見
尾原村の北、北の蟻峰山(二三二メートル)、西の福南山(二八二メートル)、タコラ山(二一五・五メートル)などの間に位置し、北は彦崎村(現児島郡灘崎町)と接する。清田八幡宮の元和元年(一六一五)の上葺再興棟札に「喜美村」とある。正保郷帳では高六八一石余、枝村として畑村を記す。享保六年(一七二一)の田畠四八町一反余、池七、家数一三一・人数七七四(備陽記)。
木見村
こうみむら
[現在地名]西区押部谷町木見・秋葉台一丁目・同三丁目・桜が丘東町六丁目・見津が丘二―四丁目
明石川上流の木見川流域に位置し、北は小村、南東は摂津国八部郡藍那村(現北区)。応永五年(一三九八)四月五日の隣接する摂津国山田庄(現同区)との境界相論には「押部庄子生村」として登場(「某快秀打渡状案」若王子神社文書)。文明一〇年(一四七八)二月七日の播磨明石郡檀那村付注文(肥塚文書)に広峯神社(現姫路市)の檀那として「かうミ村」とみえる。天正一二年(一五八四)七月一四日羽柴秀吉は木見村高八〇石余の知行を安宅甚五郎(信康)に認めている(「羽柴秀吉知行方目録」萩原員崇氏所蔵文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 