本郷房太郎(読み)ホンゴウ フサタロウ

20世紀日本人名事典 「本郷房太郎」の解説

本郷 房太郎
ホンゴウ フサタロウ

明治〜昭和期の陸軍大将 大日本武徳会会長。



生年
安政7年1月24日(1860年)

没年
昭和6(1931)年3月20日

出生地
丹波国篠山(兵庫県)

学歴〔年〕
陸士(第3期)〔明治12年〕卒

経歴
明治35年歩兵第四十二連隊長。日露戦争に出征後、38年7月少将となり俘虜情報局長官に就任、日露戦争の俘虜全員の引渡しに努力。この時、日本に帰化を願い出た2人の俘虜は逃走行方不明者として扱い、その願いをかなえたという逸話がある。その後、人事局長、教育総監部本部長、陸軍次官、第17、第1各師団長、青島守備軍司令官を歴任、大正7年に大将、軍事参議官となった。10年には予備役に編入され、15年から日本武徳会長を務めたが、つねに“軍部愛”を提唱、将校連の親睦融和を説いた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「本郷房太郎」の解説

本郷房太郎

没年:昭和6.3.20(1931)
生年:万延1.1.24(1860.2.15)
明治大正期の陸軍軍人篠山藩(兵庫県)藩士本郷貫之助とたかの長男。明治8(1875)年豊岡県教員伝習所に入学,9年旧藩主青山家の第2回養育生に選ばれて上京。12年陸軍士官学校卒業後,陸士教官兼生徒隊長として士官教育に携わる。日露戦争(1904~05)には歩兵42連隊長として出征し得利寺,遼陽会戦に参加。次いで38年陸軍省副官兼人事局長兼俘虜情報局長官となり,寺内正毅陸軍大臣を補佐し,ロシア軍捕虜の本国送還,戦後論功行賞などを行った。ヨーロッパ各国軍の教育機関視察ののち,42年教育総監部本部長となり,軍隊教育令(1913発布)の制定に努めた。軍隊教育を一種の国民教育と位置づけ,精神修養を重んじ,軍隊内各種教育の主眼を定めた大綱である。大正2(1913)年陸軍次官となり,6年青島守備軍司令官として占領地行政を手がけた。翌年大将に進んだ。<参考文献>本郷大将記念事業期成会編『陸軍大将本郷房太郎伝』

(岸本昌也)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本郷房太郎」の解説

本郷房太郎 ほんごう-ふさたろう

1860-1931 明治-大正時代の軍人。
安政7年1月24日生まれ。陸軍士官学校教官をへて日露戦争に歩兵第四十二連隊長として従軍。のち陸軍次官,第一師団長などを歴任し,大正7年陸軍大将にすすむ。昭和6年3月20日死去。72歳。丹波篠山(ささやま)(兵庫県)出身。陸軍士官学校卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「本郷房太郎」の解説

本郷 房太郎 (ほんごう ふさたろう)

生年月日:1860年1月24日
明治時代-昭和時代の陸軍軍人。大将;青島守備軍司令官
1931年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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