本間棗軒(読み)ほんま・そうけん

朝日日本歴史人物事典 「本間棗軒」の解説

本間棗軒

没年:明治5.2.8(1872.3.16)
生年:文化1(1804)
江戸後期の漢蘭折衷派医。内服麻酔薬を用いる華岡流外科手術の継承発展者。初名は資章,のち救,字は和卿,通称玄調。棗軒は号。家を自準亭。常陸国(茨城県)小川村生まれ。原南陽漢方,杉田立卿,箕作阮甫に西洋医学を学ぶ。京都の高階枳園につき,次いで華岡青洲の青林軒塾で文政10(1827)年から外科を修業,青洲晩年の円熟した外科手術を学び,江戸で開業。積極的な手術治療で医名大いにあがり,水戸藩医に抜擢され,藩校弘道館医学館医学教授にもなる。徳川斉昭侍医の傍ら門下生を教育し,華岡流外科を臨床治療の中で発展させた。麻沸湯(麻酔薬)を用いて痔瘻,乳癌などを手術し,下肢脱疽の手術では大腿部での切断手術(青洲は足部か下腿部)を華岡流で初めて実施している。自分の手術症例を中心とした『瘍科秘録』10巻(1837),『続瘍科秘録』5巻(1854)は,華岡流外科の治療技術が初めて一般公開された快挙であり,同門の伊予宇和島の鎌田玄台(1794~1854)が出版した『外科起廃』(1851)とともに医療の秘伝化打破に一石を投じた。長崎シーボルトの外科治療を見学し,「彼の外科手術の腕はたいしたものではない」と手紙に書いている。多くの手術症例経験からくる自負躍如たるものがある。水戸地方の種痘の指導普及にも貢献し,小冊子『種痘活人十全弁』を配り,『内科秘録』14巻(1867)にその詳細を載せている。<参考文献>呉秀三『華岡青洲先生及其外科』,蒲原宏『日本整形外科前史』(『整骨・整形典籍大系』13巻)

(蒲原宏)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本間棗軒」の解説

本間棗軒 ほんま-そうけん

1804-1872 江戸時代後期の医師。
文化元年生まれ。原南陽に漢方を,シーボルト,高階枳園(たかしな-きえん),華岡青洲らに西洋医学をまなび,江戸で開業。のち常陸(ひたち)水戸藩主の侍医,藩校医学館教授。華岡流外科を継承,発展させ,麻沸湯(全身麻酔薬)による外科手術をおこなった。明治5年2月8日死去。69歳。常陸出身。名は資章,救。字(あざな)は和卿。通称は玄調。著作に「瘍科(ようか)秘録」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の本間棗軒の言及

【医学】より

…たとえば紀州の華岡青洲は,マンダラゲを主成分とする麻酔剤を開発して,乳癌の手術などを多く実施した。その門人本間棗軒(1804‐76)は,四肢の切断や陰茎切断などの困難な手術にも成功している。京都の産科医賀川玄悦は,胎児が子宮内で頭を下にした背面倒首していることを日本で初めて記載し,また異常分娩を救うために,種々の有効な措置を工夫したことでも知られている。…

【手術】より

…華岡流外科は中国式とオランダ式の折衷であったが,西洋外科学の直接の導入は,大槻玄沢によるハイスターL.Heisterの外科書の翻訳やP.F.vonシーボルトの外科書の日本語への翻訳による。当時の外科医としては青洲の門弟の本間棗軒(そうけん)や,順天堂をおこした佐藤泰然らが知られる。1853年(嘉永6)のペリーの黒船到来前後から幕府は西洋の軍事技術とともに西洋医学をも導入すべく努めるようになり,57年(安政4)にはオランダ海軍軍医のポンペを海軍伝習所医官として長崎に招いて西洋医学の講義を行わしめた。…

【風土病】より

…これに次ぐ被害を与えたのは日本住血吸虫症で,江戸後期の医師藤井好直が《片山記》(1847)に記録しており,〈片山病〉ともいわれ,広島県の片山盆地のほか,山梨県の甲府盆地などの水田地帯に広がっていた。また同じころ医師本間棗軒(そうけん)(玄調)が《瘍科秘録》(1837)に記した〈食兎中毒〉は,今日ツラレミアと呼ばれる野兎(やと)病であった。そのほか,とくに山村や離島には,フィラリア,肝臓ジストマ,肺臓ジストマなどが古くから流行を繰り返していた。…

※「本間棗軒」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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