本間棗軒(読み)ほんま そうけん

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本間棗軒」の解説

本間棗軒 ほんま-そうけん

1804-1872 江戸時代後期の医師。
文化元年生まれ。原南陽漢方を,シーボルト,高階枳園(たかしな-きえん),華岡青洲らに西洋医学をまなび,江戸で開業。のち常陸(ひたち)水戸藩主の侍医,藩校医学館教授。華岡流外科継承,発展させ,麻沸湯(全身麻酔薬)による外科手術をおこなった。明治5年2月8日死去。69歳。常陸出身。名は資章,救。字(あざな)は和卿。通称は玄調。著作に「瘍科(ようか)秘録」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の本間棗軒の言及

【医学】より

…たとえば紀州の華岡青洲は,マンダラゲを主成分とする麻酔剤を開発して,乳癌の手術などを多く実施した。その門人本間棗軒(1804‐76)は,四肢の切断や陰茎切断などの困難な手術にも成功している。京都の産科医賀川玄悦は,胎児が子宮内で頭を下にした背面倒首していることを日本で初めて記載し,また異常分娩を救うために,種々の有効な措置を工夫したことでも知られている。…

【手術】より

…華岡流外科は中国式とオランダ式の折衷であったが,西洋外科学の直接の導入は,大槻玄沢によるハイスターL.Heisterの外科書の翻訳やP.F.vonシーボルトの外科書の日本語への翻訳による。当時の外科医としては青洲の門弟の本間棗軒(そうけん)や,順天堂をおこした佐藤泰然らが知られる。1853年(嘉永6)のペリーの黒船到来前後から幕府は西洋の軍事技術とともに西洋医学をも導入すべく努めるようになり,57年(安政4)にはオランダ海軍軍医のポンペを海軍伝習所医官として長崎に招いて西洋医学の講義を行わしめた。…

【風土病】より

…これに次ぐ被害を与えたのは日本住血吸虫症で,江戸後期の医師藤井好直が《片山記》(1847)に記録しており,〈片山病〉ともいわれ,広島県の片山盆地のほか,山梨県の甲府盆地などの水田地帯に広がっていた。また同じころ医師本間棗軒(そうけん)(玄調)が《瘍科秘録》(1837)に記した〈食兎中毒〉は,今日ツラレミアと呼ばれる野兎(やと)病であった。そのほか,とくに山村や離島には,フィラリア,肝臓ジストマ,肺臓ジストマなどが古くから流行を繰り返していた。…

※「本間棗軒」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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