朝日日本歴史人物事典 「本間棗軒」の解説
本間棗軒
生年:文化1(1804)
江戸後期の漢蘭折衷派医。内服麻酔薬を用いる華岡流外科手術の継承発展者。初名は資章,のち救,字は和卿,通称玄調。棗軒は号。家を自準亭。常陸国(茨城県)小川村生まれ。原南陽に漢方,杉田立卿,箕作阮甫に西洋医学を学ぶ。京都の高階枳園につき,次いで華岡青洲の青林軒塾で文政10(1827)年から外科を修業,青洲晩年の円熟した外科手術を学び,江戸で開業。積極的な手術治療で医名大いにあがり,水戸藩医に抜擢され,藩校弘道館医学館医学教授にもなる。徳川斉昭の侍医の傍ら門下生を教育し,華岡流外科を臨床治療の中で発展させた。麻沸湯(麻酔薬)を用いて痔瘻,乳癌などを手術し,下肢の脱疽の手術では大腿部での切断手術(青洲は足部か下腿部)を華岡流で初めて実施している。自分の手術症例を中心とした『瘍科秘録』10巻(1837),『続瘍科秘録』5巻(1854)は,華岡流外科の治療技術が初めて一般公開された快挙であり,同門の伊予宇和島の鎌田玄台(1794~1854)が出版した『外科起廃』(1851)とともに医療の秘伝化打破に一石を投じた。長崎でシーボルトの外科治療を見学し,「彼の外科手術の腕はたいしたものではない」と手紙に書いている。多くの手術症例経験からくる自負躍如たるものがある。水戸地方の種痘の指導普及にも貢献し,小冊子『種痘活人十全弁』を配り,『内科秘録』14巻(1867)にその詳細を載せている。<参考文献>呉秀三『華岡青洲先生及其外科』,蒲原宏『日本整形外科前史』(『整骨・整形典籍大系』13巻)
(蒲原宏)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報