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原南陽 はら なんよう

美術人名辞典の解説

原南陽

江戸後期の水戸藩医。書家。水戸生。藩医原昌術の子。名は昌克、字は子柔、別号に叢桂亭、通称は玄与等。幼少より儒を伯父戸崎淡淵に、医を父に学ぶ。京都に上り、山脇東洋古医方賀川玄迪に産術を学ぶ。のち江戸に住し、御殿医、表医師肝煎となった。書も能くした。著に『叢桂偶記』『医事小言』『砦草』等多数。文政3年(1820)歿、68才。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

原南陽 はら-なんよう

1753-1820 江戸時代中期-後期の医師。
宝暦3年6月12日生まれ。京都にでて山脇東門,賀川玄迪(かがわ-げんてき)にまなぶ。のち常陸(ひたち)水戸藩医。わが国最初の軍陣医学書「砦艸(とりでぐさ)」をあらわした。文政3年8月15日死去。68歳。常陸(茨城県)出身。名は昌克。字(あざな)は子柔。通称は玄与。室号は叢桂亭。著作に「叢桂偶記」「叢桂亭医事小言」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

原南陽

没年:文政3.8.15(1820.9.21)
生年:宝暦3.6.12(1753.7.12)
江戸後期の医者。名は昌克,室号は叢桂亭。水戸藩医昌術の子として水戸に生まれる。儒学を伯父戸崎淡淵に,医学を父に学んだのち,京都に赴いて山脇東門,賀川玄迪らに師事して古医方,産術などを学ぶ。安永4(1775)年,帰郷して江戸南町(小石川)に住む。医書の字句,常則に拘泥することなく,臨機応変の治療をすることで知られていた。御側医から,享和2(1802)年には表医師肝煎。軍陣医学書『砦草』のほか『叢桂偶記』『叢桂亭医事小言』『経穴彙解』などの著がある。<参考文献>松田邦夫「『近世漢方医学書集成』18巻解説」

(石田秀実)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

原南陽
はらなんよう

[生]宝暦3(1753).水戸
[没]文政3(1820).8.16. 水戸
江戸時代後期の漢方医。字は子柔,通称玄 璵。水戸藩医の子で,京都の山脇東洋に学び,また賀川流の助産術を学んだのち江戸に出かけたが認められず,しばらくあんま,鍼を生業としているうち,水戸侯の急病を救ってから再び藩医に招かれた。南陽は当時としてはきわめて近代的な感覚の持ち主で,形式にこだわらず実効を重んじ,現実を直視したために強い影響力をもち,すぐれた門人が多く現れた。最初の軍陣医書『砦草』のほか『叢桂亭医事小言』『経穴彙解』などを著わした。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

原南陽
はらなんよう
(1753―1820)

江戸中期の医者。常陸(ひたち)国(茨城県)水戸の人。藩医の家に生まれ、名は昌克、字(あざな)は子柔、南陽は号。京都に出て山脇東洋(やまわきとうよう)に師事、また賀川流産科を修めた。江戸に赴いたが窮乏を極め、あんまや鍼(はり)で糊口(ここう)をしのいでいたが、やがて技量を認められて水戸侯の侍医となった。著書に『叢桂偶記』『医事小言』など多くあるが、『経穴彙解(けいけついかい)』は鍼灸(しんきゅう)のつぼについて述べたもの、また『砦草(とりでぐさ)』は軍陣衛生や飲食・飲水についての諸注意、救急法などを内容とする日本の軍陣医学書の最初のものである。[内田 謙]

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367日誕生日大事典の解説

原南陽 (はらなんよう)

生年月日:1753年6月12日
江戸時代中期;後期の医師
1820年没

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