原南陽
はらなんよう
(1753―1820)
江戸中期の医者。常陸(ひたち)国(茨城県)水戸の人。藩医の家に生まれ、名は昌克、字(あざな)は子柔、南陽は号。京都に出て山脇東洋(やまわきとうよう)に師事、また賀川流産科を修めた。江戸に赴いたが窮乏を極め、あんまや鍼(はり)で糊口(ここう)をしのいでいたが、やがて技量を認められて水戸侯の侍医となった。著書に『叢桂偶記』『医事小言』など多くあるが、『経穴彙解(けいけついかい)』は鍼灸(しんきゅう)のつぼについて述べたもの、また『砦草(とりでぐさ)』は軍陣衛生や飲食・飲水についての諸注意、救急法などを内容とする日本の軍陣医学書の最初のものである。
[内田 謙]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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原南陽
はらなんよう
[生]宝暦3(1753).水戸
[没]文政3(1820).8.16. 水戸
江戸時代後期の漢方医。字は子柔,通称玄 璵。水戸藩医の子で,京都の山脇東洋に学び,また賀川流の助産術を学んだのち江戸に出かけたが認められず,しばらくあんま,鍼を生業としているうち,水戸侯の急病を救ってから再び藩医に招かれた。南陽は当時としてはきわめて近代的な感覚の持ち主で,形式にこだわらず実効を重んじ,現実を直視したために強い影響力をもち,すぐれた門人が多く現れた。最初の軍陣医書『砦草』のほか『叢桂亭医事小言』『経穴彙解』などを著わした。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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原南陽 はら-なんよう
1753-1820 江戸時代中期-後期の医師。
宝暦3年6月12日生まれ。京都にでて山脇東門,賀川玄迪(かがわ-げんてき)にまなぶ。のち常陸(ひたち)水戸藩医。わが国最初の軍陣医学書「砦艸(とりでぐさ)」をあらわした。文政3年8月15日死去。68歳。常陸(茨城県)出身。名は昌克。字(あざな)は子柔。通称は玄与。室号は叢桂亭。著作に「叢桂偶記」「叢桂亭医事小言」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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原南陽 (はらなんよう)
生年月日:1753年6月12日
江戸時代中期;後期の医師
1820年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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