李芸(読み)イ・エ

朝日日本歴史人物事典 「李芸」の解説

李芸

没年:世宗27(1445)
生年:恭愍22(1373)
李氏朝鮮前期の官人,外交官。日本語読みは「り・げい」。もと蔚山郡の役人で,倭寇との交渉に功績があり,副司直,大護軍,上護軍,中枢院事などの官職を歴任した。8歳のときに母が倭寇によって連れ去られたため,使節に随行して来日したが,さがし当てることはできなかった。その後,日本や琉球に使いすること40回におよび,倭寇などによって日本に連れ去られた朝鮮人の送還に尽力した。特に,永享10(1438)年に対馬に使いし,島主宗貞盛との間に文引の制を締結したことは,中世日朝交渉史上注目される。<参考文献>『朝鮮史』4篇1~4巻

(佐伯弘次)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「李芸」の解説

李芸 り-げい

1373-1445 朝鮮王朝官僚
恭愍(きょうびん)王22年生まれ。日本や琉球(りゅうきゅう)との外交にあたる。永享10年(1438)宗貞盛(そう-さだもり)との間に対馬(つしま)島主文引(ぶんいん)制を発足させ,朝鮮との通交貿易船に宗氏の発給する渡航許可書(文引)の携行を義務づけ,所持しないものは賊船とした。嘉吉(かきつ)3年朝鮮と宗貞盛の間に協定された癸亥約条(きがいやくじょう)の交渉もおこなった。世宗(せいそう)27年死去。73歳。

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