東京本願寺(読み)とうきようほんがんじ

日本歴史地名大系 「東京本願寺」の解説

東京本願寺
とうきようほんがんじ

[現在地名]台東区西浅草一丁目

西浅草にしあさくさ一丁目の北西部にある。本尊阿弥陀如来。江戸時代は現真宗大谷派の浅草御坊。京都の同派本山本願寺(通称東本願寺、現真宗本廟)御堂衆が輪番として派遣され御坊を管轄するとともに、教団における幕府への直接の窓口として大きな機能を発揮した。

創立は天正一九年(一五九一)に本願寺教如が徳川家康より神田西福さいふく寺前に方五〇間の屋敷地を拝領、七間四面の御堂を建立し、惣道場光瑞こうずい寺と称したことに始まるという(浅草本願寺史)。慶長一四年(一六〇九)には江戸城周辺や武家屋敷建築に伴い神田明神下の方一〇〇間の代替地に移転。幕府内や京都西本願寺では「神田之御堂」(明暦三年三月一一日「松野坊書状」本願寺史料研究所保管西本願寺文書)や「神田御門跡」(明暦三年四月七日「上田織部書状」同文書)などとも称していた。しかし光瑞寺の寺号を名乗っていても、西本願寺御堂衆金宝寺明専の「紫雲殿由縁記」の寛永二年(一六二五)二月六日条に「本門主御用関東エ下向、東武首尾能被仰付(中略)裏方ヨリ光徳寺老僧下向、与而御願望タル江戸ニオヰテ兼帯所ノ義、裏方モ首尾能御許容ノ御事ナリ」とあり、この時まで教団における正式の本山直属の出張所である兼帯所(掛所ともいう)ではなく、幕府法上は屋敷地の扱いであった可能性がある。

明暦三年(一六五七)一月の大火によって神田の御堂は焼失し、同年五月四日に浅草三十三間あさくささんじゆうさんげん堂前の方一〇〇間の芝地を御坊の替地として与えられた(徳川実紀)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の東京本願寺の言及

【浅草別院】より

…本堂,書院兼輪番所,記念会館,幼稚園,美容学校等をもつ。65年東京本願寺と改称した。【柏原 祐泉】。…

※「東京本願寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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