東海岸道(読み)ひがしかいがんどう

日本歴史地名大系 「東海岸道」の解説

東海岸道
ひがしかいがんどう

近世以来の和人地―東蝦夷地の幹線道。近代の開拓使時代には駅逓が設けられていた。起点は箱館(函館)で津軽海峡沿岸を東行、恵山えさん(現椴法華村)を回り海岸線に沿って北上、内浦湾岸を経回してモロラン(室蘭)へ出、太平洋岸を東行してヱリモ(襟裳、現えりも町)に至る。ヱリモからは太平洋岸沿いに北行また東行し、ネモロ(根室)を経てワッカオイ(湧生、現清里町)に至り、ここで北海岸道につながった。松前藩は和人地から蝦夷地への自由な往来を禁じ、東蝦夷地では亀田かめだ(現函館市)に番所(関所)を置いて通行人を調べた。一八〇〇年(寛政一二年)和人地・東蝦夷地境が汐首しおくび(現戸井町)に移され、番所もここに移された(松前随商録)。また同年ノタヲイ(野田追、現八雲町)までが「村並」とされたため(休明光記附録)、まもなく番所はヤムクシナイ(山越内、現八雲町)に移った。ヤムクシナイから先の東蝦夷地では道路の維持・管理、宿泊所にかかわる業務は場所請負人(会所支配人)に委任されていた。

この道路は海岸沿いのため険しい断崖絶壁が続くところがあり、そうした場所は迂回して山道を通った。近世にはレブンゲ山道(シツカリ―レブンゲ間)シャマニ山道(ヲソフケウシ―ホロマンベツ間)サルル山道(コロブル―サルル間)ルベシベツ山道(ビタタヌンケ―ルベシベツ間)、シャリ越道(クスリ―シャリ間)などがあった。ルベシベツ山道は一七九八年近藤重蔵らによって開削された山道で、蝦夷地道路開削の嚆矢とされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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