東漢氏(読み)ヤマトノアヤウジ

百科事典マイペディアの解説

東漢氏【やまとのあやうじ】

秦(はた)氏と並ぶ渡来系の有力大氏族。(かばね)は初め直(あたえ)。東漢は西漢(かわちのあや)に対する称であるが,同族ではない。応神天皇20年に後漢霊帝の裔という阿知使主(あちのおみ)が17県の党類を率いて渡来したと伝える。大和盆地南辺檜前(ひのくま)地方を拠点とし,新たに大陸から渡来した技術者集団を本宗家の支配下に編入。のち多くの氏に分化,朝廷の財務・外交・文筆などに携わり,文化・技術の発展に大きく寄与した。八色(やくさ)の姓制で忌寸(いみき)に改姓。8世紀以降坂上(さかのうえ)氏が優勢となって本宗家の地位を確立。征夷大将軍坂上田村麻呂が著名。→渡来人漢氏
→関連項目西文氏新沢千塚古墳群

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世界大百科事典 第2版の解説

やまとのあやうじ【東漢氏】

日本古代に朝鮮半島から帰化した氏族。倭漢氏とも書く。後漢霊帝の子孫を称し,秦始皇帝の裔という秦氏と帰化氏族の勢力を二分する。王仁の裔と称する河内漢氏(かわちのあやうじ)とは同族的な関係にあり,したがって東漢,西漢と連称されるが,氏は別である。 《日本書紀》《新撰姓氏録》さらに《続日本紀》の坂上苅田麻呂の上表文などによると,応神天皇のとき,後漢霊帝の3世孫阿知使主(あちのおみ)が〈党類十七県〉をひきい来日し,さらに子の都加使主(つかのおみ)を呉に遣わし,工女兄媛,弟媛,呉織,穴織の4婦女を連れてかえったというが,これは雄略天皇のとき倭漢氏の一族が呉に使し,〈手末才伎(たなすえのてひと)〉の衣縫兄媛,弟媛,漢織,呉織を連れかえったとする説話と共通する。

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世界大百科事典内の東漢氏の言及

【坂上氏】より

…日本古代の氏族。渡来系氏族の東漢氏(やまとのあやうじ)(倭漢氏とも書く)から分かれた多数の枝氏族の一つ。東漢氏は,応神天皇の時代に阿知使主(あちのおみ)に率いられて日本に渡来してきたという伝承をもち,5世紀ころよりヤマト朝廷の文筆,財務,外交にたずさわるとともに,あとから渡来してきた手工業技術者などを支配下におさめて急速に成長した氏族であるが,その後分裂をくりかえし,60以上の枝氏族に分かれたという。…

【檜隈】より

…奈良県高市郡明日香村南西部の古代地名。檜隈忌寸(いみき)とも称される渡来系集団,東漢(やまとのあや)氏が集中して居住した。《日本書紀》応神20年9月条の記事や,《続日本紀》宝亀3年(772)4月条の坂上苅田麻呂の奏言によれば,応神朝に百済から渡来した阿知使主(あちのおみ)やその子の都加使主(つかのおみ)らが檜隈邑に住みつき,その子孫が栄えて檜隈忌寸と称されるに至ったという。…

【東漢掬】より

…雄略天皇の臨終に際しては,とくに大連(おおむらじ)の大伴室屋と掬とに遺言して,白髪皇子(清寧)を後継の天皇に立てることを託したが,天皇が死ぬと星川皇子が皇位につこうとし,母の吉備稚媛(きびのわかひめ)の教えに従って大蔵を占拠したので,室屋と掬は兵を発して大蔵を囲み,火を放って皇子らを焼き殺したという。東漢氏(やまとのあやうじ)はのち大いに発展して数十の氏に分かれ,また多数の帰化系の小氏や部民を指揮・管理するようになったので,後世になると,もとは中国の漢の帝室の後裔で,その後朝鮮の楽浪・帯方郡に移り,そこから17県という多数の党類を率いて日本に渡来したというような祖先伝説を構作するようになるが,それらはにわかには信じがたい。また掬に関する伝えも応神朝から雄略朝の末までにわたっていて,どこまで確かな事実かわからない。…

※「東漢氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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