日本古代に朝鮮半島から帰化した氏族。倭漢氏とも書く。後漢霊帝の子孫を称し,秦始皇帝の裔という秦氏と帰化氏族の勢力を二分する。王仁の裔と称する河内漢氏(かわちのあやうじ)とは同族的な関係にあり,したがって東漢,西漢と連称されるが,氏は別である。
《日本書紀》《新撰姓氏録》さらに《続日本紀》の坂上苅田麻呂の上表文などによると,応神天皇のとき,後漢霊帝の3世孫阿知使主(あちのおみ)が〈党類十七県〉をひきい来日し,さらに子の都加使主(つかのおみ)を呉に遣わし,工女兄媛,弟媛,呉織,穴織の4婦女を連れてかえったというが,これは雄略天皇のとき倭漢氏の一族が呉に使し,〈手末才伎(たなすえのてひと)〉の衣縫兄媛,弟媛,漢織,呉織を連れかえったとする説話と共通する。また阿知使主が,彼の旧居(帯方郡の故地,高句麗と百済の間)には才芸に巧みなものが多いので迎えたいと申請し,村落をあげ連れかえったのが〈漢人(あやひと)〉であるとの説話がある。これも雄略天皇のときとする次の話と同工異曲である。すなわち才芸に巧みなものが多く〈韓国〉にあるので,これら〈今来才伎(いまきのてひと)〉を日本に連れかえったのが〈新漢(いまきのあや)〉の陶部,鞍部,画部,錦部,訳語で,一説に漢手人部,衣縫部,宍人(ししひと)部であるともいい,これらを東漢掬(つか)(都加使主)が大和国の高市郡に安置したとある。このように,〈今来才伎〉〈今来漢人〉〈百済才伎〉らは,阿知使主でなく,その子の都加使主つまり応神のときでなく雄略のとき,すなわち5世紀末の時期の話が本来のものであり,倭漢氏の渡来ののち,あらたに手工業民が集団的に渡来し,本宗家の支配下に編入されたということを示すと考えられる。雄略天皇のとき〈漢部〉をあつめてその〈伴造〉を定め,〈漢直(あやのあたい)〉の姓を賜ったというのも,このような現象をさすのであろう。
この〈今来漢人〉が日本古代の品部(しなべ)制の源流であり,部民(べみん)制の成立の機縁となったというのが一般の学説である。欽明天皇から天武天皇までの倭漢氏の人名をみると,川原民直,坂上直,山口直,荒田井直,書(ふみ)直,民直など16姓にのぼり,これらは東漢坂上直,倭漢書直,漢山口直,倭漢直荒田井などとも表記され,いずれも倭漢氏であることが知られるが,同族の中でこのように氏の分化がきわめて進んでいること,それはいずれもが朝廷の官人として活動した結果で,秦氏の土豪性と対照されることなどが理解できる。
天武天皇の八色の姓(やくさのかばね)までに,これら各氏は直から連(むらじ)に改姓され,八姓でいっせいに連から忌寸(いみき)に改められた。その後〈坂上系図〉によると8世紀以後,坂上忌寸が同族と主張したのは60氏にのぼっている。それに対し〈今来漢人〉の後身は村主(すぐり)で,鞍作村主,錦部村主,金作村主,飛鳥村主など30氏にのぼる。このような多数の同族を代表する氏上(うじのかみ)は,7世紀末の壬申の乱のころは書直,8世紀前半の養老より天平までは民忌寸,天平以後は坂上忌寸(のち宿禰)と変化したらしい。彼らは〈檜前忌寸(ひのくまのいみき)〉と総称され,高市郡の郡司に任ぜられ,高市郡内に他姓のものは十中一,二といわれるほど集住性が高かった。
このような倭漢氏の同族関係が変化するのは,平安時代に入って承和年間(834-848)各氏の忌寸,宿禰姓のものが,ともに内蔵朝臣に改姓されたころからで,帰化氏族の特性は失われ,日本の貴族姓への転化がみとめられる。
→新漢人(いまきのあやひと)
執筆者:平野 邦雄
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倭漢氏とも。応神朝に来朝したと伝える阿知使主(あちのおみ)を祖とする,渡来系の有力豪族。「続日本紀」延暦4年(785)6月条の坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)の上表では阿知使主を後漢霊帝の曾孫とするが,漢(あや)は朝鮮の安邪国(現,慶尚南道咸安地方)に由来するとの説もある。「日本書紀」雄略16年10月条に漢部の伴造(とものみやつこ)となり直姓を賜ったとみえる。大和国高市郡檜前(ひのくま)付近を本拠に,多くの渡来系技術者や部民を統轄し,外交・軍事・財政・文筆などの分野で王権に奉仕した。すでに6世紀には文(ふみ)(書)・坂上・民・長など多くの氏に分裂しており,682年(天武11)5月に連(むらじ),685年に忌寸(いみき)に改姓したのちは東漢という総称はほとんど用いられなくなる。8世紀半ば以降は坂上氏が同族で最も優勢となった。
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…日本古代の氏族。渡来系氏族の東漢氏(やまとのあやうじ)(倭漢氏とも書く)から分かれた多数の枝氏族の一つ。東漢氏は,応神天皇の時代に阿知使主(あちのおみ)に率いられて日本に渡来してきたという伝承をもち,5世紀ころよりヤマト朝廷の文筆,財務,外交にたずさわるとともに,あとから渡来してきた手工業技術者などを支配下におさめて急速に成長した氏族であるが,その後分裂をくりかえし,60以上の枝氏族に分かれたという。…
…奈良県高市郡明日香村南西部の古代地名。檜隈忌寸(いみき)とも称される渡来系集団,東漢(やまとのあや)氏が集中して居住した。《日本書紀》応神20年9月条の記事や,《続日本紀》宝亀3年(772)4月条の坂上苅田麻呂の奏言によれば,応神朝に百済から渡来した阿知使主(あちのおみ)やその子の都加使主(つかのおみ)らが檜隈邑に住みつき,その子孫が栄えて檜隈忌寸と称されるに至ったという。…
…雄略天皇の臨終に際しては,とくに大連(おおむらじ)の大伴室屋と掬とに遺言して,白髪皇子(清寧)を後継の天皇に立てることを託したが,天皇が死ぬと星川皇子が皇位につこうとし,母の吉備稚媛(きびのわかひめ)の教えに従って大蔵を占拠したので,室屋と掬は兵を発して大蔵を囲み,火を放って皇子らを焼き殺したという。東漢氏(やまとのあやうじ)はのち大いに発展して数十の氏に分かれ,また多数の帰化系の小氏や部民を指揮・管理するようになったので,後世になると,もとは中国の漢の帝室の後裔で,その後朝鮮の楽浪・帯方郡に移り,そこから17県という多数の党類を率いて日本に渡来したというような祖先伝説を構作するようになるが,それらはにわかには信じがたい。また掬に関する伝えも応神朝から雄略朝の末までにわたっていて,どこまで確かな事実かわからない。…
※「東漢氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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