朝日日本歴史人物事典 「松岡康毅」の解説
松岡康毅
生年:弘化3.6.23(1846.8.14)
明治大正期の官僚,政治家。父は阿波国(徳島県)の農民松岡康吉,母は春子。号は伴鶴,退堂。幼少時,墓場で子守をしながら文字を暗記し,それを父母に尋ねたという。安政6(1859)年ごろ江戸に出て文武の修業に励む。明治2(1869)年徳島藩知事蜂須賀茂韶に意見書を提出して認められ,翌年同藩少属となった。廃藩置県後上京して司法省に入り,以後長い間司法官の道を歩んだ。その間,19年から翌年にかけてプロイセン,オーストリアに留学。検事総長在任中の24年大津事件に遭遇し,犯人津田三蔵への大逆罪適用に反対した。翌年の司法官弄花事件に伴う省内の紛糾に際し,首相山県有朋に説得され大審院長児島惟謙と両成敗の形で辞任。第2,3次伊藤博文内閣で内務次官を務め,第2次山県内閣の第14議会では貴族院議員として宗教法案の成立に努めたほか,第1次西園寺内閣の農商務大臣も務めた。かたわら日本法律学校(日本大学)を再興し,大正6(1917)年男爵に叙せられたが,関東大震災の際罹災し葉山別邸で死去した。<参考文献>大山卯次郎編『松岡康毅先生伝』
(長井純市)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報