松永庄(読み)まつながのしよう

日本歴史地名大系 「松永庄」の解説

松永庄
まつながのしよう

現小矢部市松永を中心とした一帯に比定される松尾まつお神社(現京都市右京区)領庄園。成立は久安五年(一一四九)松尾神主頼親の代で、以来同社の本神領として社務の仁(神主)に相伝され、御供神服講経などの神役を勤仕してきたという(仁治元年一〇月日「松尾社前神主秦相久陳状」宮内庁書陵部所蔵漂到琉球国記裏文書)。建久七年(一一九六)六月一七日の源頼朝書状(松尾神社文書)に「松永庄」とみえ、当庄地頭貞近の地頭職停止等を命じている。ただしこの書状は検討の余地がある。頼親の子相頼は、神主職を孫の頼康に譲ったが、頼康が不孝者であったため、建久八年譲状を悔返し、頼康らを義絶した。しかし頼康は年老いた相頼を相手に相論を繰返したため、相頼は正治二年(一二〇〇)頃、末子の相久を嫡子として私領等を譲った。その後、相頼は死に臨んで当庄の庄務を相久に譲り、兵部卿家を領家と仰ぐこととして久安の宣旨以下の証文を領家に送った。しかし頼康は神主の権勢を傘にきて相久に当庄を知行させず、建保二年(一二一四)当庄の下司真光・真延を追放するための宣旨を詐取したが、鎌倉幕府によって宣旨は無効とされ、当庄は荒廃した。その次の神主の相能も惣官(神主)として当庄を知行し、次いで神主となった相久はようやく当庄を知行することとなったという(前掲相久陳状)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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