板屋野木村(読み)いたやのきむら

日本歴史地名大系 「板屋野木村」の解説

板屋野木村
いたやのきむら

[現在地名]板柳町板柳

岩木川中流右岸に位置し、東は枝川えだがわ(現枝川鶴田堰)を境に福野田ふくのだ村、北は灰沼はいぬま村に接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡の新田に板屋木村一三一・二石とあり、同年の津軽郡之絵図には板屋野木村とある。貞享元年(一六八四)の郷村帳に一五四一・八石で新田とする。同四年の検地帳は田方三町八反三畝二一歩、屋敷地を除いた畑方二三町三反八畝六歩、屋敷一五町四畝七歩、田畑屋敷合せて四二町二反六畝四歩、村高二六八・一二五石、百姓二〇五人を記す。元禄三年(一六九〇)には赤田組に属し、村位は上とある(平山日記)。公式には板屋野木村とするが、「平山日記」「永禄日記」などには板柳村も用いられ、一般には併用されたと考えられる。

「平山日記」によると、元和―寛永年間(一六一五―四四)から藤崎ふじさき(現南津軽郡藤崎町)より北、川より南の地域が三千石遣として開発が始まり、板屋野木は正保元年弘前藩の役人立会いによって、町づくりの縄張りと渡場の整備がされた。翌年村高が定められ、同三年正休しようきゆう寺・龍淵りゆうえん寺が創立された。寛文三年(一六六三)黒石(現黒石市)飯詰いいづめ(現五所川原市)浅虫あさむし(現青森市)とともに大場(町)に指定され、板屋野木村に三千石遣の代官所が置かれた(板柳町郷土史)。「津軽古今偉業記」は慶安年間(一六四八―五二)下沢彦右衛門が小知行派によって創立したとする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報