板西庄
ばんざいのしよう
讃岐山脈南麓、大坂谷川が南流して旧吉野川に注ぐ一帯に比定される。庄名は板野郡の西部に位置することにちなむといわれる。坂西庄とも書く。上庄と下庄とに分れ、上庄は現板野町矢武・黒谷・那東、上板町西分・椎本・神宅の一帯に、下庄は現板野町下庄を中心に、同町大寺・大坂・吹田・古城・西中富・中久保・唐園の一帯に比定される。
建暦三年(一二一三)二月日の慈鎮所領譲状案(華頂要略)に「坂西庄」とみえる。当庄は慈鎮(慈円)が師の桂林院大僧正(全玄、双林寺と号する)より譲り受けた京都青蓮院門跡領のうちの極楽寺(現京都市伏見区)領の一所で、慈鎮から弟子の朝仁親王(のち道覚、後鳥羽上皇皇子)に譲られた。しかし承久の乱によって道覚は西山に籠居し、慈円は貞応元年(一二二二)六月、青蓮院門跡領板西庄の年貢は能米二〇〇石(京定・国器)、麦二〇〇石(同じく京定・国器)で、「除寺用等定、延勝寺・双林寺・法華堂」と定めたうえで(「慈円置文」華頂要略)、翌二年四月青蓮院門跡を甥である良快(九条兼実の子)に譲っている。当庄はさらに良快から弟子の慈源(九条道家の子)に譲られ、天福二年(一二三四)八月の慈源所領注文(同書)では双林寺(現京都市東山区)房領の一つとして当庄の所当を米五〇〇石・麦七〇〇石・油五石・雑物等と記している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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