開基は最澄とされる。延暦二四年(八〇五)唐より帰朝した最澄は天台密教疏五〇〇巻および護摩供の器具を桓武天皇に献じた。天皇は左大史尾張連定鑑に勅してこの地に伽藍を創立し(拾芥抄)、最澄に賜り、将来した経典などを置いたと伝える。この地の形状が唐の沙羅双林寺に似たので霊鷲山沙羅双樹林寺と称し、弘仁一四年(八二三)の比叡山延暦寺建立後はその別院となった。永治年間(一一四一―四二)には鳥羽天皇皇女あや御前が住持し(今鏡)、建久七年(一一九六)には土御門天皇皇子静仁法親王が住持して双林寺宮と称したこともあったが(帝王編年記)、元弘の乱で戦場となり荒廃した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市東山区鷲尾(わしお)町にある天台宗の寺。山号は金玉山(きんぎょくさん)。本尊は薬師如来(やくしにょらい)。805年(延暦24)唐より帰った最澄(さいちょう)が、天台密教疏(しょ)500巻と護摩供用仏具を桓武(かんむ)天皇に献じたので、天皇は一伽藍(がらん)を建立してそれを収め、最澄に賜ったと伝える。傅翕(ふきゅう)が創建した中国浙江(せっこう)省の双林寺に似ているので、霊鷲山沙羅双樹林法華三昧無量寿(りょうじゅせんさらそうじゅりんほっけざんまいむりょうじゅ)院と名づけ、略して双林寺とよばれた。かつては支院17をもつ大寺であったが、境内が削られ、現在は大部分が円山(まるやま)公園となっている。西行(さいぎょう)法師(1118―90)は出家後東山に住し、当寺での歌があり、頓阿(とんあ)(1289―1372)も西行を慕って住した。また鹿(しし)ヶ谷(たに)事件で流罪となり出家した平康頼(やすより)は寺内の山荘で『宝物集』を著したといわれる。室町時代には時宗の国阿(こくあ)が念仏道場として復興し、国阿派(双林寺派)の根本道場となった。明治初期に天台宗に復した。門前に西行桜、西行庵(あん)、芭蕉(ばしょう)庵がある。本尊薬師如来坐像(ざぞう)は国の重要文化財。西行、頓阿、平康頼の供養塔、円山応挙の碑などがある。
[田村晃祐]
…東に接する迫町,若柳町との境に迫川の遊水池としての機能をもつ伊豆沼,内沼があり,冬季にはハクチョウ,ガン,カモなどが飛来し,天然記念物に指定されている。平安時代の薬師如来座像(重要文化財)を本尊とする双林寺(杉薬師)がある。【千葉 立也】。…
※「双林寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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