朝日日本歴史人物事典 「林鶴梁」の解説
林鶴梁
生年:文化3.8.13(1806.9.24)
江戸後期から明治期の儒学者,幕臣。名は長孺,通称は初め鉄蔵のち伊太郎,鶴梁と号し,堂号を十七種素芳堂といった。上州(群馬県)人。江戸に出て御家人株を買い幕吏林氏を継ぐ。はじめ遊侠の徒と交わったが悔悟し,長野豊山に師事。甲府徽典館教授ほか諸職を歴任ののち嘉永6(1853)年代官に昇進,任地遠州中泉(静岡県磐田市)では地震津波の際に貯蔵庫を開放して領民を救済,奥羽幸生(山形県寒河江市)では銅山開発に努めるなどして功績をあげる。その後納戸頭,新徴組支配,学問所頭取と転任。外艦に対しては藤森天山らと鎖港を主張。維新後は麻布の自宅に門生を教え,終生官仕しなかった。純白を愛し,身辺ことごとく白い花木その他でうめていたという。羽倉簡堂や安井息軒など,実務と文事の均衡のとれた江戸後期特有の代官文人のひとりで,特に文章に秀でた。<著作>『鶴梁文鈔』正,続篇<参考文献>坂口筑母『小伝林鶴梁』1~3巻
(宮崎修多)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報