松崎慊堂(読み)マツザキコウドウ

デジタル大辞泉 「松崎慊堂」の意味・読み・例文・類語

まつざき‐こうどう〔‐カウダウ〕【松崎慊堂】

[1771~1844]江戸後期の儒学者。肥後の人。名は密・復。あざなは明復。別号益城。江戸に出て林述斎朱子学を学び、のち、遠江とおとうみ掛川藩教授蛮社の獄では門弟渡辺崋山赦免運動に尽力。日記に「慊堂日暦」がある。

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精選版 日本国語大辞典 「松崎慊堂」の意味・読み・例文・類語

まつざき‐こうどう【松崎慊堂】

  1. 江戸後期の儒者。肥後国(熊本県)益城郡木倉村の人。名は復、字は明復。僧籍から転じ、江戸に出て昌平黌にはいり林述斎に学び、遠州掛川藩の儒官となる。狩谷棭斎とともに儒教経典の研究に携わり漢唐の注疏や「説文」の研究を究めた。棭斎の志を継いで「唐開成石経」の縮刻を企画し、天保一五年(一八四四)に「縮刻唐石経」が完成した。下獄した渡辺崋山の救出に努力した。著に「慊堂日暦」「慊堂全集」など。明和八~弘化元年(一七七一‐一八四四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「松崎慊堂」の意味・わかりやすい解説

松崎慊堂
まつざきこうどう
(1771―1844)

江戸後期の儒者。肥後(熊本県)の農家の生まれ。父の望みで真宗(しんしゅう)寺の小僧となったが、江戸に出奔し、昌平黌(しょうへいこう)で学ぶ。佐藤一斎(さとういっさい)はその学友。32歳から45歳まで掛川(かけがわ)藩藩校教授を勤めたのち、江戸・目黒の羽沢村に「石経(せきけい)山房」を築いて隠居した。経義に精通し、詩文に長じた考証学の泰斗。蛮社(ばんしゃ)の獄に際しては、門人であった渡辺崋山(わたなべかざん)のために奔走した。塩谷宕陰(しおのやとういん)、安井息軒(やすいそくけん)はその弟子。『慊堂全集』『慊堂先生遺墨(いぼく)』『残叢(ざんそう)小話』『遊豆(ゆうず)小志』『遊東陬録(すうろく)』『海録砕事(さいじ)跋』『慊堂日暦』その他多くの著作がある。

[源 了圓 2016年7月19日]

『『慊堂日暦』全6巻(1970~1983・平凡社・東洋文庫)』

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百科事典マイペディア 「松崎慊堂」の意味・わかりやすい解説

松崎慊堂【まつざきこうどう】

江戸末期の儒学(古学)者。名は復,字は明復。肥後(ひご)の人。江戸で林述斎に学び,同門に佐藤一斎があった。1802年遠州(えんしゅう)掛川藩に仕え,藩主諮問(しもん)に応じたが,生国熊本藩の招きには応じなかった。狩谷【えき】斎(えきさい),山梨稲川と親しく,《説文解字》の研究,唐の《開成石経》の翻刻を行った。〈蛮社の獄〉で捕らえられた渡辺崋山の赦免(しゃめん)に尽くしたことは知られる。著書に《接鮮【いん】語(いんご)》《慊堂遺文》などがあり,特に《慊堂日暦》は当時の学者・学問の状況を知るうえで貴重な資料。
→関連項目大槻磐渓佐久間象山安井息軒

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朝日日本歴史人物事典 「松崎慊堂」の解説

松崎慊堂

没年:弘化1.4.21(1844.6.6)
生年:明和8.9.27(1771.11.3)
江戸後期の儒学者。掛川藩(静岡県)藩儒。名は復,字は明復,慊堂は号。肥後国益城郡北木倉村(熊本県御船町)の農家に生まれ,10歳のとき剃髪して僧になったが,15歳のとき儒学者になるために出奔して江戸に出た。浅草称念寺の僧の世話で林大学頭錦峯(信敬)の門人になり,すぐに頭角を現した。述斎(衡)が林家を継ぎ昌平黌の改革が行われると,その家塾で佐藤一斎と学才を競った。享和2(1802)年掛川藩主太田資俊に20人扶持で招かれ,次の資愛の代には藩校北門書院(徳造書院の前身)を開いて慊堂に教授させ,また藩政についての意見を徴した。文化8(1811)年,朝鮮通信使対馬来聘の際には林述斎の依頼で応接に当たった。掛川藩に10年仕えたのち,致仕して江戸西郊の羽沢(渋谷区広尾)に隠居して晩年の23年間を過ごした。天保13(1842)年,幕府から表彰を受け,将軍家慶に謁見を賜った。慊堂の学は初め朱子学を奉じていたが,50歳のころから漢学(漢代の儒学)に改め,後世の煩瑣な注釈を排して経書の本文を理解することを唱え,経書本文の校訂出版に尽力した。特に唐の開成石経に校訂を加えて出版する事業に取り組み,天保12年に完成した。著書には文集『慊堂遺文』2巻のほか,日記『慊堂日暦』24巻などがある。温厚誠実な人柄で,蛮社の獄(1839)の際に,門人であった渡辺崋山のために自らの危険を顧みず,病をおして助命嘆願書を書いたことは有名である。<参考文献>五弓久文編『事実文編』57巻,高野白哀『大儒松崎慊堂』

(梅澤秀夫)

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改訂新版 世界大百科事典 「松崎慊堂」の意味・わかりやすい解説

松崎慊堂 (まつざきこうどう)
生没年:1771-1844(明和8-弘化1)

江戸後期の儒学者。名は復,字は明復,慊堂は号。肥後益城郡木倉村の農家に生まれる。はじめ僧となったが15歳のとき儒を志し江戸へ出奔,昌平黌に入り,のち林述斎の家塾で学ぶ。1802年(享和2)掛川藩儒となり,藩主の政治上の諮問にも応じた。生国熊本藩から招かれたが固辞し,14年(文化11)致仕し,江戸城西の羽沢村に山荘,石経山房を営み,子弟教育と漢学研究に任じた。学問は広く,少壮期は程朱を奉じたが,50歳ごろからは一家に偏せず経書の研究・校刊につとめた。42年(天保13)将軍に謁見,荻生徂徠以来の盛事と称された。同年幕府が大名に経典の刊行を奨励した際,《擬刻書目》を作り提出した。晩年には名声ますます高く,要路の人の諮問にあずかった。蛮社の獄で捕らえられた渡辺崋山の赦免に尽力したことでも有名。著述は《慊堂全集》にまとめられ,その日記《慊堂日暦》(〈東洋文庫〉所収)も貴重な資料である。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松崎慊堂」の意味・わかりやすい解説

松崎慊堂
まつざきこうどう

[生]明和8(1771).9.28. 肥後
[没]天保15(1844).4.21.
江戸時代後期の儒学者。名は密,復。字は退蔵,明復。益城,慊堂と号した。農家に生れ,11歳の頃真宗寺の小僧にされたが 13歳で出奔し上京,浅草の称念寺に身を寄せた。住職の好意で昌平黌に入学,林述斎の塾生となり,同門の佐藤一斎と切瑳した。享和2 (1802) 年掛川藩教授。郷里肥後の細川藩よりの招聘を固辞。蛮社の獄に際し門人渡辺崋山の赦免運動に力を尽した。著書『慊堂全集』 (28巻,17冊) のほか『残叢小話』『慊堂日暦』『海録砕事』など。渡辺崋山による肖像が残されている。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松崎慊堂」の解説

松崎慊堂 まつざき-こうどう

1771-1844 江戸時代後期の儒者。
明和8年9月27日生まれ。農家の出で,はじめ仏門にはいるが,15歳のとき江戸にでて昌平黌(しょうへいこう),林述斎の家塾でまなぶ。享和2年遠江(とおとうみ)(静岡県)掛川藩の藩校教授となる。のち江戸目黒に石経山房をひらく。蛮社(ばんしゃ)の獄では門人渡辺崋山(かざん)の赦免のため奔走。天保(てんぽう)15年4月21日死去。74歳。肥後(熊本県)出身。名は密,復。字(あざな)は退蔵,明復。別号に益城。日記に「慊堂日暦」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「松崎慊堂」の解説

松崎慊堂
まつざきこうどう

1771〜1844
江戸後期の朱子学者
肥後(熊本県)の農家に生まれ,15歳のとき江戸の昌平坂学問所に入り,林述斎に学んだ。博学と考証学的学風で知られ,のち遠江 (とおとうみ) (静岡県)掛川藩の儒官となった。蛮社の獄で門人渡辺崋山の赦免に尽くした。

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367日誕生日大事典 「松崎慊堂」の解説

松崎慊堂 (まつざきこうどう)

生年月日:1771年9月27日
江戸時代後期の儒学者;遠江掛川藩儒
1844年没

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