16世紀後半から19世紀にかけて、ロシア、オスマン・トルコ帝国間で黒海およびその沿岸地方の支配をめぐって戦われた11回の戦争。露土戦争ともいう。そのうち、もっとも普通には最後の(11)をさし、ついで(6)および(7)の二つがこの名でよばれる戦争の著名なものである。
(1)(16世紀後半) 最初の戦争では、ロシアのイワン4世(雷帝)が、1552~1556年にボルガ川流域のトルコ支配下のカザン、アストラハン両ハン国を併合、続いてクリム・ハン国に侵入し、トルコ軍を撃退した。(2)(1677~1681) その後ロシアの南下策は一時停頓したが、17世紀後半になると戦争は再開された。ロシアは、ポーランドと組んでドニエプル川左岸のウクライナ地方からトルコ勢力を一掃した。(3)(1695~1696) ついでピョートル1世(大帝)の時代になり、トルコによるウィーン包囲(1683)というヨーロッパの危機下に、ロシアも対トルコ戦に参加して行われた。(4)(1710~1711) 大北方戦争中、敗れてトルコに亡命したスウェーデンのカール12世の引き渡しをピョートル1世が要求したことから開戦、ロシアは敗北し、黒海沿岸進出の試みは挫折(ざせつ)した。(5)(1736~1739) その後、アンナ・イワーノブナ女帝(在位1730~1740)がオーストリアの支援を受けてトルコと戦端を開き、アゾフを領有してようやく黒海進出の橋頭堡(きょうとうほ)を得た。(6)(1768~1774) ロシアは、帝国の膨張を目ざしてトルコ支配下のクリミア地方に侵入して戦った。その結果、クチュク・カイナルジ条約(1774)で黒海北岸を領有、ついでクリム・ハン国を併合(1783)した。(7)(1787~1792) ロシアは、さらにジョージア(グルジア)地方の保護権を主張してトルコと開戦、ヤーシIaşi条約(1792)でモルダビア地方を得た。(8)(1806~1812) 両国の戦争は、ナポレオン戦争の際にも行われ、ロシアはモルダビアに続いてワラキアを占領(1806)、ドナウ川を越えてブルガリア北部まで攻め入った。しかしナポレオン1世のモスクワ遠征が迫るとトルコと講和し、ベッサラビアを除いてトルコ領から撤退した(1812)。(9)(1828~1829) 1828年ギリシアがトルコからの独立戦争を開始すると、ロシアもトルコのカフカス地方に攻め入り、アドリアノープル条約(1829)でこの地方の領有を承認させた。(10)(1853~1856) 1853年エルサレムの聖地管理権をめぐって両国は対立、ロシアとトルコおよびこれを支援するフランス、イギリス、サルデーニャとの戦争(クリミア戦争とよばれる)となり、1856年のパリ条約では敗れたロシアに不利な条件が押し付けられた。(11)(1877~1878) その後1875年にヘルツェゴビナ、ボスニアで反トルコの蜂起(ほうき)があり、翌1876年ブルガリア、モンテネグロ、セルビアもトルコに宣戦すると、一連の外交的圧力に成功しなかったロシアも1877年トルコに宣戦した。この戦いで敗れたトルコは1878年サン・ステファノ条約で講和した。しかしこの条約にイギリス、オーストリアが反対し、ドイツのビスマルクの斡旋(あっせん)で同年ベルリン会議が開かれ、ロシアはベッサラビア南部とカフカス地方のトルコ領の一部を得たにすぎなかったため不満が残り、やがて汎(はん)スラブ主義運動の格好の火種となった。こうしてロシアの南下政策への執着と「瀕死(ひんし)の病人」といわれたトルコの対民族主義政策の立ち遅れが、オーストリア、ドイツ、フランス、イギリスといった帝国主義諸国の利害と複雑に絡んで、第一次世界大戦の一因をつくりだすことになった。
[藤村瞬一]
露土(ろと)戦争ともいう。18世紀から19世紀にかけて数次にわたりロシアがトルコを攻撃した戦争。まずピョートル1世がアゾフ海を獲得した最初の戦争(1739年終結)ののち,エカチェリーナ2世は1768年に戦争を開始し,74年のキュチュク・カイナルジャ条約で両海峡航行権を獲得し,以後トルコを圧迫する立場に立った。19世紀前半にもバルカン半島をめぐって両国はしばしば戦ったが,世紀の半ばには決定的なクリミア戦争が起こった。このときの戦争は国際化し,孤立したロシアは敗北した。その後1875年,ボスニア・ヘルツェゴヴィナ,ブルガリアで反乱が起こり,それを支援する義勇兵の派遣がロシア国内で進められた。そのなかで1877年ロシアはトルコを攻めた。これが一連の戦争の最後のもので,固有名詞としての「ロシア‐トルコ戦争」はこの戦争をさす。ロシア軍は苦戦したが,プレヴナ要塞を長期にわたる包囲戦の末,陥落させ,ついにトルコを屈服させて,78年サン・ステファノ条約の調印に至った。これによりトルコはルーマニア,ブルガリアの独立を認めたが,イギリスとドイツの干渉で,ベルリン会議の結果,ブルガリアは半分だけの独立となるなど,ロシアの戦果は切り下げられた。
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…18~19世紀を通じて,ロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)の間で戦われた一連の戦争。ロシア・トルコ戦争とも呼ばれる。不凍港を求めて,黒海からさらに地中海への南下を目ざすロシアの東方政策を主たる契機として発生した。…
※「ロシアトルコ戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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