日本歴史地名大系 「染殿院跡」の解説
染殿院跡
そめどのいんあと
人臣初の摂政となった藤原良房(忠仁公)の邸跡。染殿宮とも称された。
良房は左大臣冬嗣の二男で母は美都子。嵯峨天皇に信任され、右大臣まで進み、白河殿・染殿と称した。
位置は「拾芥抄」に「正親町北京極西二町、忠仁公家、或本染殿、清和院同所」とあり、正親町小路北、東京極大路の西二町、すなわち現京都御苑内の京都御所東、
また清和院について「拾芥抄」は「正親町南京極西、清和母后御在所」と記し、染殿内の南部分をさすか、もしくは染殿に北接していたと考えられる。
「三代実録」貞観三年(八六一)二月一八日条に「皇太后臨御太政大臣東京染殿第」とみえる、良房の女文徳天皇皇后明子は染殿を御所とし、染殿の后とよばれた(古今集)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報