(瀧浪貞子)
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第56代に数えられる天皇。在位858-876年。文徳天皇と藤原良房女の女御明子との間に生まれ,名を惟仁(これひと)という。祖父仁明天皇と曾祖母の太皇太后橘嘉智子の相つぐ死によって,生後わずか9ヵ月で父文徳天皇の皇太子となり,さらに文徳天皇の急死によって,未成年の9歳で即位する異例を開いた。この異例の背後には外祖父良房の巨大な存在があり,良房は太政大臣として幼帝の大政を摂行した。いわゆる人臣摂政のはじめである。しかし,文徳朝には長兄惟喬(これたか)親王を擁立しようとする紀氏らの動きがあり,清和朝の866年(貞観8)には〈応天門の変〉が起こるなど,政争がくり返された。清和天皇は病弱で政治をいとい,27歳で9歳の皇子陽成天皇に譲位して仏門に入り,畿内の諸寺院を巡拝するなど信仰は熱烈をきわめた。ついに丹波国の水尾山寺(みのおさんじ)に入ろうとしたが,果たさずに没した。その皇后は《伊勢物語》に〈二条の后〉と呼ばれる藤原高子。
執筆者:目崎 徳衛
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第56代天皇(在位858~876)。文徳(もんとく)天皇第四皇子。母は藤原良房(よしふさ)の女明子(むすめあきらけいこ)。諱(いみな)は惟仁(これひと)。水尾(みずのお)帝ともいう。文徳天皇は紀名虎(きのなとら)の女静子の生んだ惟喬(これたか)親王を皇太子とすることを願っていたが、藤原氏の威勢を背景に惟仁親王が850年(嘉祥3)に立太子し、858年(天安2)9歳で即位した。幼齢であったので、外祖父良房が太政(だいじょう)大臣として大権を行使し、元服を終えた866年(貞観8)には良房に対し天下の政を摂行せよとの勅を下し、天皇成人後も良房が大権を行使するというあり方の確認を行っている。職名としての摂政(せっしょう)・関白は使われていないが、良房は摂政・関白の実を行ったと考えられる。在世中応天門が焼け落ちるという事件(866)が起こったが、律令(りつりょう)支配の困難さは深刻化していたとはいえ、概して静謐(せいひつ)のまま終わったようである。18年の在位後876年陽成(ようぜい)天皇に譲位。879年(元慶3)5月落飾(らくしょく)入道し、11月粟田山(あわたやま)荘円覚寺に遷幸し、12月4日崩御。嵯峨(さが)の水尾(みずお)陵に葬る。
[森田 悌]
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850.3.25~880.12.4
在位858.8.27~876.11.29
水尾(みのお)帝とも。文徳天皇の第4皇子。名は惟仁(これひと)。母は藤原良房の女明子(あきらけいこ)。1歳で皇太子に立てられ,9歳で父の死去により践祚した。史上はじめての幼帝で,藤原良房・同基経が政治を主導した。876年(貞観18)長子(陽成(ようぜい)天皇)に譲位し,3年後に出家した。
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…10世紀の中ごろに起きた平将門の乱で大きな役割を果たした源護(まもる)の一門は,必ずしもその系譜を明らかにしないが,源姓で一字名であることから推察すると,嵯峨か仁明の流れである。つぎに清和天皇のときには,まず4人の皇子長猷,長淵,長鑒,長頼らに源の賜姓があり,ついで貞固,貞元,貞保,貞純,貞数,貞真ら諸親王の皇子,すなわち天皇の皇孫の多くが源氏となった。その時点での清和源氏だけでも約15流ほどが認められる。…
※「清和天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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