朝日日本歴史人物事典 「柴田剛中」の解説
柴田剛中
生年:文政6.1.17(1823.2.27)
幕末の幕臣。良通の長男。天保13(1842)年徒目付昇進を皮切りに,嘉永6(1853)年評定所出仕,安政1(1854)年同留役助,翌2年評定所留役に累進。同5年外国奉行支配組頭となり,神奈川(横浜)の開港場設置のため外国使節団と交渉。以後,外人殺傷事件や貨幣兌換問題など多難の時期の外交の第一線で活躍。文久2(1862)年開市開港延期談判の竹内保徳遣欧使節に組頭として参加,帰国後外国奉行並,翌年外国奉行に累進し箱館に赴任。慶応1(1865)年軍政調査と横須賀製鉄所建設のためフランスへ渡航,陸軍教師を招聘する一方,パリで通商関係樹立をねらうイタリアの遣日使節と交渉した。帰国後,同3年大坂町奉行,兵庫奉行などを歴任し,兵庫開港問題解決に努力した。明治維新後は新政府に仕えなかった。<参考文献>「幕府名士小伝」(『旧幕府』1巻2号)
(岩壁義光)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報