賠償問題(読み)ばいしょうもんだい

改訂新版 世界大百科事典 「賠償問題」の意味・わかりやすい解説

賠償問題 (ばいしょうもんだい)

西欧近代史において,主権国家間の紛争に戦争という形で決着がつけられた場合,交戦国の一方が他方に対して,戦争によって生じた損害を金銭,物品などで賠償するという慣行があった。戦勝国が敗戦国に償金indemnityを課す慣行は,17世紀以来,一般的な方式に展開し,19世紀には償金に関する規定を講和条約に盛り込むのが通常となった。国際市場の発展に応じて,国内の商品経済の柱である法体系に準拠し,償金金額の評価,支払いが行われた。

史上初の総力戦となった第1次世界大戦で,ヨーロッパ各国は勝敗にかかわらず多大な社会経済的打撃を被った。戦争の性格自体もその結果もたらされた状況も,従来とは質的に異なっていたのを反映し,償金も含めてそれまでの戦争に関する国際慣行が大幅に修正された。戦後処理の方式と各国の復興は,切実な国際政治上の問題であったが,それらと密接にかかわるドイツの賠償問題は,ベルサイユ条約から10年以上も紛糾を続けた(ベルサイユ体制)。初めて〈賠償reparation〉の語を使った,アメリカのウィルソン大統領は最低限の賠償額にとどめようとした。しかし一方,イギリスフランスは,国内の経済悪化と政権の不安定性を前にし,さらにアメリカへの戦債償還を果たさなければならず,ドイツから厳しい賠償を取り立てる論陣を張った。また,侵略戦争を引き起こしたドイツ皇帝の戦争責任問題にあらわれたように,賠償によってドイツに懲罰を与えようとする国民感情は強く,とくにフランスは強硬な態度を崩さなかった。

 1921年のロンドン支払案(1320億金マルク)はドイツが履行できず,履行を求めるフランス,ベルギーは23年ルール地区を占領した。だがこれは一層のインフレを招き,対処するため24年にはドイツへの資金供給を前提とするドーズ案,そして30年には最終的にヤング支払案(1210億金マルク)が決められた。ドイツは1年間これに従ったが,結局,世界恐慌によってヤング案も直ちに葬られ,34年には賠償支払いそのものが放棄された。

 第2次世界大戦後は,戦間期の経験から一国の経済を歪め国際経済を揺るがすにいたるような賠償案は好ましくないという認識があった。ドイツ第三帝国領土の一部と東ヨーロッパの敗戦国を占領したソ連は,賠償物資を自国へ持ち出したが,アメリカの占領するドイツ,日本ではまず経済の民主化と余分な工業力の処分を目的とした賠償案が練られた。冷戦の進行するなかで米ソ両大国の利害は厳しく対立し,西側諸国の占領下にあるドイツ領や日本には,反共の防波堤としてアメリカの資金援助をもとに経済復興が図られることとなった。
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戦勝国が敗戦国に対して要求・賦課する償金,賠償には,戦勝国の戦費の負担および公私の損害を償うためのものがあるが,第2次世界大戦にいたるまでの近代日本政府はもっぱらこれの受取り手であった。日本で賠償支払い問題が生じたのは第2次世界大戦の敗北後である。大戦末期の1945年4月,米英ソ3国が賠償委員会を構成し,その代表にポーリーEdwin W.Pauleyを任命し,第1次世界大戦後の過重な対独賠償が経済的混乱とナチスの台頭を招いたことを考慮して,現金や生産物の賠償を避け,軍需工業とそれに関連した過剰既存設備をおもな対象とし,経済自立を可能にする程度に抑えるという基本方針を示した。ポーリー調査団は45年11月に東京に到着しみずからの調査,アメリカ政府・極東委員会の要望,日本政府の陳情をもとに46年4月〈ポーリー最終報告〉を作成し,空襲を逃れた軍需工業を中心とする重工業施設の過半を賠償として撤去することを勧告した。極東委員会では賠償の分配に関する合意が成立せず,47年4月のアメリカ政府のGHQへの指示により暫定的な施設撤去が開始され,49年5月までの2年間に4000万ドル相当分の工業施設・機械類が搬送され,中国は2000万ドル分,フィリピンは800万ドル分,イギリスは700万ドル分,オランダは500万ドル分を受け取った。

 この間,アメリカは対日政策を転換して経済復興と政権の安定を急ぐようになり,それに合致する賠償方針として〈ストライク報告書〉(1948年3月,主要軍事施設を除いた生産設備の撤去禁止を勧告),〈ジョンストン報告書〉(同5月,日本経済の早期自立を図るため,日本に対する経済的負担の軽減を勧告)が提出され,1949年5月,極東委員会において,アメリカのマッコイ代表が賠償のための日本の経済施設撤去の中止を宣言した。51年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約は,連合国が1945年9月2日以前の戦争行為から生じる賠償請求権,直接軍事費に関する請求権を放棄する旨を規定し(14条),同時に,日本軍の侵略によって与えられた損害と苦痛に対しては条約発効後の個別交渉に基づき賠償が支払われるべきことを規定した。

 1952年4月28日調印の日華平和条約,同年6月9日調印の日印平和条約では,それぞれ対日賠償請求権の放棄が規定された。日本,ビルマ(現ミャンマー)は52年4月30日戦争状態を終結し,54年11月5日,平和条約および賠償・経済協力協定を締結した。これにより,10年間に2億ドルの役務と生産物を供与し,さらに経済協力として5000万ドル相当分を共同事業の形式で供与することとなった。日本・フィリピン間では1953年3月12日の沈船引揚げに関する中間賠償協定,56年5月9日の賠償協定および経済開発借款に関する交換公文が調印され,賠償5億5000万ドル,経済協力2億5000万ドルが規定された。日本・インドネシア間では58年1月20日賠償協定が成立し,12年間に2億2308万ドルの賠償および20年間に4億ドルの借款が供与されることになった。インドシナ3国のうちカンボジア,ラオスは賠償請求権を放棄したが,南ベトナムのゴ・ジンジェム政権と日本との間では59年5月13日賠償協定および借款協定が成立,5年間に賠償3900万ドル,借款1660万ドルの供与が規定された。このほか,日本,タイの〈特別円債務支払いに関する協定〉(1955),日韓条約(1965),シンガポール血債問題(1966)は賠償協定の形式をとっていないが,日本による植民地支配と軍事的占領とがかかわって起こったものである。

 なお,賠償問題は戦時に限られず平時にも起こり得る(〈国際責任〉の項参照)。また,国内問題としてのそれもあるが,それらについては〈国家賠償〉〈損害賠償〉〈公害賠償制度〉等の項を参照されたい。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「賠償問題」の解説

賠償問題
ばいしょうもんだい

第2次大戦後の日本の賠償支払問題。連合国の賠償政策は,当初日本の非軍事化を主眼に軍需工業の生産設備の接収・撤去による現物賠償方式を原則としていたため,1945年(昭和20)11月のポーレー報告はきびしい内容となっていた。しかし,その後アメリカの対日占領政策が転換し,47年来日のストライク調査団(ストライク勧告),48年来日のドレーパー使節団(ジョンストン報告)の報告では大幅に緩和され,49年5月には中間賠償支払も中止され,11月ダレスの対日講和案ではついに無賠償方針へと落着した。フィリピンなど東南アジア諸国の強い賠償取立要求で,51年のサンフランシスコ講和条約では賠償条項が規定されて個別的支払協定が認められ,アジア4カ国との賠償協定が結ばれて,55~76年の間に総額10億ドル余が支払われた。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「賠償問題」の解説

賠償問題
ばいしょうもんだい
Reparation Problem

一般的には近現代史における国家間の戦争において,戦勝国が敗戦国に金銭を賠償させることをさすが,狭義には第一次世界大戦後のドイツの賠償支払いに関する問題のこと
ドイツが負った賠償総額は,ヴェルサイユ条約にもとづき,1921年,1320億金マルクと決定されたが,支払い能力を超えたものであったため,23年にフランスのルール占領を招き,ドイツ経済は破局にひんした。そこで1924年ドーズ案で支払い方法が緩和され,29年ヤング案で358億金マルクに減額された。しかし,世界恐慌のため,これも実行不能となり,1931年フーヴァー−モラトリアムが出され,32年ローザンヌ会議で30億金マルクに修正されたがこれも実行されず,ナチス政権は賠償自体を拒否した。

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