栗原信充(読み)くりはらのぶみつ

精選版 日本国語大辞典 「栗原信充」の意味・読み・例文・類語

くりはら‐のぶみつ【栗原信充】

  1. 江戸末期の故実家通称孫之丞。号柳菴。江戸の人。幕府に仕え、「古今要覧稿」の編集に参加した。著に「武器袖鏡」「弓箭図式」「甲冑図式」「鞍鐙図式」「柳菴随筆」など。寛政六~明治三年(一七九四‐一八七〇

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「栗原信充」の意味・わかりやすい解説

栗原信充 (くりはらのぶみつ)
生没年:1794-1870(寛政6-明治3)

江戸後期の故実家。通称は孫之丞。字は伯任。柳葊,柳闇,又楽と号する。幕府御家人の出身で,江戸駿河台に生まれた。柴野栗山および屋代弘賢に学ぶ。弘賢の《古今要覧》編集に従事,のち自宅で故実の教授にあたる。武家故実に詳しく,1864年(元治1)島津久光に招かれ薩摩に赴いた。のち京都に住み,栂尾高山寺に葬られた。著書《柳菴随筆》《柳菴雑筆》《先進繡像玉石雑誌》《鞍鐙新書》《鏨工譜略》《弓箭図式》《甲冑図式》《官位令講義》《軍防令講義》《職原抄私記》など多い。その遺著は島津家に献呈したが,西南戦争で焼亡した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「栗原信充」の解説

栗原信充

没年:明治3.10.28(1870.11.21)
生年:寛政6.7.20(1794.8.15)
江戸後期の故実家。幼名,陽太郎。字,伯任。通称は孫之丞。号は柳庵。甲斐源氏であることから晩年は武田姓を名乗る。江戸幕府の奥御右筆を務めた父和恒の関係で,父の同僚屋代弘賢と弘賢の知己平田篤胤から国学を,柴野栗山から儒学を学んだ。幼少より弘賢の不忍文庫の膨大な蔵書の閲覧を許され,成人後は弘賢が幕命により編纂していた『古今要覧』の調査に加わるなど,広く知識を得る環境に恵まれた。全国を巡って資料を訪ね諸家と交わる調査によって,実見によって文物を理解する学を旨とした。のち弘賢の病死により『古今要覧』の製作は中止,それまでの蓄積は自著という形で世に出した。特に力を注いだ武具,馬具類に関する著作『甲冑図式』『刀剣図式』『弓箭図式』『武器袖鏡』『兵家紀聞』『装剣備考』などは幕末武士の教養書として重用された。<参考文献>上田淑子「文学遺跡巡礼」(『学苑』9巻1号)

(白石良夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「栗原信充」の解説

栗原信充 くりはら-のぶみつ

1794-1870 江戸時代後期の有職(ゆうそく)家。
寛政6年7月20日生まれ。柴野栗山(りつざん)に儒学を,平田篤胤(あつたね)に国学を,屋代弘賢(ひろかた)に有職故実をまなぶ。弘賢の「古今要覧」の編集をたすけ,「武器袖鏡」「刀剣図考」など武家故実に関する著作もおおい。明治3年10月28日死去。77歳。江戸出身。字(あざな)は伯任。通称は孫之丞。号は柳庵。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「栗原信充」の解説

栗原信充 (くりはらのぶみつ)

生年月日:1794年7月20日
江戸時代末期;明治時代の故実家
1870年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android