平安時代以後,朝廷の儀式典礼を行う場合,そのよりどころとなる歴史的事実を故実といい,この故実に通じていることを有職といった。有職は〈ゆうそこ〉ともいい,古くは有識と書いた。中世以来故実は公家儀礼における公家故実と武家儀礼における武家故実にわけられ,前者を単に有職といい,後者を故実という場合が多い。
そもそも故実はなにか事を行う場合に,それが先例,先規としてかえりみられるときにのみ意味が生ずる。すなわち中国の《国語》〈魯語(ろご)〉に〈樊穆仲(はんぼくちゆう)曰(いわ)く,魯侯は事を賦し,刑を行うに必ず遺訓に問い,而して故実に咨(はか)る〉とあるものや,日本の三善清行(みよしきよゆき)の《意見十二箇条》(914)中の,五節舞妓(ごせちのぶぎ)の員数を減らすことを請う条に〈伏して故実を案ずるに,弘仁,承和二代もっとも内寵(ないちよう)を好む……〉とあるものなど,ともに単なる歴史的事実をさしているのである。
しかし平安遷都以来,八省院や豊楽院(ぶらくいん)の完成をみて,それにともない朝儀も充実し,かつ重んぜられてくるようになると,故実という意義内容が上のようなただ広い意味での先例ということでなく,公事(くじ)に関する事例のみに固定し限定されてくる傾向になった。そしてその典拠となるものは,《内裏式(だいりしき)》(内裏儀式・内裏式)をはじめ,弘仁,貞観,延喜などの儀式書がつぎつぎにできた平安初期で,すなわち即位,大嘗(だいじよう)の臨時の公事をはじめ,朝拝,観射など文武の恒例行事が大極殿(だいごくでん),豊楽殿,武徳殿,紫宸殿(ししんでん)などで盛大に行われた時代であった。平安中期になると,さらに公事行事の数は多くなったが,国家的儀式は初期のようにさかんではなく,むしろ宮廷を中心とした年中行事が多くなり,行事の行われる場所も朝堂院や豊楽院よりも内裏の紫宸殿や清涼殿が多く用いられるにいたった。したがってこの時代になると政務,饗宴,仏教,神道,修法,呪禁(じゆごん),季節などに関したいろいろな行事が年中行事化されて,宮廷生活はさながら元日の四方拝から歳晩の追儺(ついな)にいたるまで行事の連続であった。885年(仁和1)に藤原基経(もとつね)によって調進されたと伝える清涼殿落板敷(おちいたじき)にたてられた〈年中行事障子〉にしるされている行事の数は200余件の多きにのぼるものであったから,そこにつねにそれら行事の先例や先規がかえりみられる必要がおこったのである。
しかし臨時の行事はもちろんのこと,年々くりかえされる行事にしても,そのときどきによっていろいろの事情のもとに必ずしも同一に行われるとはかぎらない。その作法や儀式内容に幾分変化がみられるのは当然であって,ここに行事の一つの典型が求められたのである。その妥当なものが故実とされ,その故実に通ずるものが当時有職者と称されることとなったのである。したがって狭義の有職の成立は平安時代の中期であって,当初にはまだ一般の〈学問知識〉と同意義に用いられていた。その後しだいに法令上の知識をさすこととなり,これから儀式典礼,宮中の作法に通ずることを意味するようになった。村上天皇時代の源高明の《西宮記(さいきゆうき)》にもこの意味の有職の用例が見えており,同書の〈侍中事〉の条に〈御所及殿上間事,就先達有識之人可問知也〉とある。この有識の人とは宮中の作法,調度の置きようなどすべてに精通している者のことをさしている。のちの《大鏡》にも太政大臣実頼(さねより)を〈大方何もいうそくに御心うるはしくおはしますは,世の人の本(ほん)にぞひかれさせ給ふ〉とあるのもこうした意味の用例であろう。くだって一条天皇のころ(986-1011)には,もっと広く,当時宮廷人の教養の一つであった音楽,料理,絵画,文学などについてひいでた人をも〈ゆうそく〉と称したことが,《源氏物語》などによって知られる。しかしその本義はやはり上述の意味にあった。この〈有識〉の字は上述のように,いつか〈有職〉の字におきかえられてきたが,それは鎌倉時代以後のことであろう。
儀式・公事の生活は先規に従うことを旨としたことは,いつの世も変わらなかったが,種々の事情によって必ずしも一定ではなく,年とともに変化していった。この一つ一つの例がすなわち故実で,これが記録として伝えられていく。したがって有職は故実の上に立つともいえるが,なおその根本においては儀式の典型を求めている。たとえば大極殿や豊楽院で催される即位式や節宴の儀が,紫宸殿や,のちには太政官庁で行われるようになったときでも,つねに両殿の儀に準じて行われたのである。このようにして,有職の研究は儀式の完成をみた平安時代に典拠をおき,その追究の方法として,朝儀,官職,位階,殿舎,調度,装束,輿車,飲食などの部門に対象をおくこととなったのである。
行事の典型としての〈故実〉の用法は,《西宮記》に典儀の中の誤った事項を〈故実を失う〉とか〈故実無し〉あるいは〈故実に非ず〉などとしるしている。なお注意すべきことは〈神今食(じんごんじき)〉の条に,天皇の御湯に供奉する人について,〈侍臣中伝故実者供奉……〉とあることで,これは故実に通ずることが,単に先例にくわしいというばかりでなく,事を行う動作や作法に熟達していなければならぬとするところにあって,これが故実の意義のほんとうの成立であった。当時の藤原(九条)師輔(もろすけ)や藤原(小野宮(おののみや))実頼が後世から有職の祖と仰がれたのは,彼らが実際の儀式にもよく通じていたからで,単にその知識だけの所有者ではなかったのである。鎌倉時代になって,上述の九条・小野宮両流について《古今著聞集》に〈小野宮,九条殿の両流,口伝(くでん)故実そのかはりめ多く侍(はべ)るとかや,有職の家に習ひ伝へて,今に絶ることなし〉とあるが,平安末期から鎌倉時代にいたって行事が一つの知識として伝えられてきたのであった。鎌倉時代に政権が公家から武家に移ってからは,宮廷はただ形式的な任免,叙爵や儀礼の府となり,その伝統の学問や技芸すら形式化してそれぞれを専門とする家柄が生じ,ここに近世の意味の公家有職のめばえがあったのである。
平安時代に入って大(だい)内裏を中心として朝儀が整備されて,いくどか儀式書が編纂されたが,その現存最古のものが《内裏式》3巻である。この書ははじめ嵯峨天皇の詔によって,821年(弘仁12)に右大臣藤原冬嗣などが奏進したものを,さらに833年(天長10)に右大臣清原夏野らが淳和天皇の命により修正を加えたものである。最初の弘仁当時の選進事情は,序文にも明らかなとおり,儀礼の細かいところがまだ備わらず,これを行う者のよるべきところなきを憂え,ここに旧章を取捨して新式を立て,儀式の次第を明らかに会得せしめるにあった。しかしその後,10年余を経てふたたび〈儀式のふるまいが年ごろすこぶるあらたまる〉状態になったので,ここにまた錯誤をけずり,欠を補って統一を期したという。この当時,同じ清原夏野を総裁とし,有職の公卿らをして養老令の義解が刊修された。かくしてその後も儀式書はいろいろ編纂されたが,《内裏式》のつぎにはいわゆる《貞観(じようがん)儀式》10巻と称せられるものが現存しており,これは《内裏式》にくらべてすこぶる詳密に恒例・臨時の儀礼を記述してある。なおさかのぼっては《弘仁儀式》10巻があったことは《本朝書籍目録》に書名をのせ,《本朝法家文書目録》にはその編目を記してある。また《延喜儀式》10巻もあったが,これは今は失われて世に伝わらず,当時の儀式の一部は《延喜式》によって知ることができる。
その後,村上天皇のころに《新儀式》6巻が編纂されたが,これは散逸して,現在は第4,第5の2巻が残っているにすぎない。このように,ときどきその儀礼の形が変化するので,そのつど儀式書が新たに編纂されたのである。しかしこの《新儀式》を最後として官修のものが跡をたち,私人の編者が現れてくるのであるが,これは時代制度の大きな変遷を反映したことを示している。すなわち弘仁~貞観(810-877)を最高潮とした儀礼がしだいに下り坂となり,国家的な儀式はようやく藤原氏を背景とした皇室中心の儀式となって,神事,仏事,あるいは陰陽道,または季節による行事が多く,また一方には政事の内容も形式化されて,官吏の任免,除目その他が恒例行事化して,ますます年中行事が重要なものとなった。そしてこれをとどこおりなく処理することが官吏の主要な任務となった。ちょうどこの時代に小野宮実頼と九条師輔が出て年中行事の二大典型を残したのである。師輔には《九条年中行事》の著があり,実頼の養子実資には《小野宮年中行事》が現存している。実資は後一条天皇の1021年(治安1)から後朱雀天皇の時代(1036-45)にかけて右大臣の任にあったが,彼の日記《小右記(しようゆうき)》はまた当時の貴重な資料である。この小野宮流にはその後,佐理,公任,資仲,季仲,通俊などの名賢が多くあったと,一条兼良の《江(ごう)次第抄》にいっている。
一方,官撰の儀式書のあとをうけて著作されたものに《西宮記》がある。編者はさきの実頼とやや時を同じくした源高明,醍醐天皇の皇子で,世に西宮左大臣と称せられ,儀式・故実に通じていた。その著の内容は,恒例・臨時の公事をはじめ,理政の儀にまでもおよんだ広範囲なものであった。その後また,実資とほぼ時を同じくして藤原公任があり,その著に《北山抄(ほくざんしよう)》10巻があった。この抄は《西宮記》とともに平安中期の儀式を知るに欠くことのできないものであり,《江家次第》(《江次第》ともいう)とともに私撰儀式書の三大著作である。これらの官撰・私撰の儀式書の関係を《江次第抄》につぎのように述べている。〈延喜の時儀式十巻を撰ず,今よりこれを視(み)れば猶(なお)古礼也,故(ゆえ)に天暦に新儀式一巻を撰し当世の礼を用ふ……此後西宮左大臣高明公,四条大納言公任等,私に各々次第を作って新儀式を助成す〉。またおなじ兼良は《桃華蘂葉(とうかずいよう)》において,〈西宮抄は古礼也,北山抄は一条院以来の儀式也〉とも指摘している。また《古事談》に,公任は師輔の玄孫教通を婿に取った関係から,《北山抄》には九条家の記録も伺い見て参酌してあるので,めでたいものだと知足院藤原忠実がいったとある。高明はその系譜からも九条流であることは想像されるが,《北山抄》にはこの《西宮記》の説をしばしばしりぞけているところがあるのは,両流の関係を語っていて興味がある。このほか公任と同時代には九条系のものに,書家としても有名な藤原行成があり,その記録《権記(ごんき)》の中で当時の儀式の乱れを嘆じたところなども見えている。
藤原公任の没した年,すなわち後朱雀天皇の1041年(長久2)に《江家次第》の著者大江匡房が生まれている。匡房は後冷泉,後三条,白河,堀河,鳥羽の5代の天皇につかえ,時勢は藤原氏を中心とした朝廷の権力がおとろえ,白河上皇の院政から次期の武家権力政治へ移ろうとする変動期にあたっていた。したがって彼の使命は,藤原時代に完成された朝儀や,公事作法を集大成し,それを後世に伝えるべきものであった。後二条関白師通の委嘱をうけて編纂したといわれる彼の著《江家次第》は,初めから一書をなしたものでなく,公事のときどきに臨んで漸次編纂していったというのも,この間の消息を語っている。すなわち儀式もすべて往時のおもかげはなく,それが行われる殿舎,装飾,調度などの条件が一変しつつあったので,儀式にのぞんで旧儀の研究が主として記述されていったのである。この点,さきの《西宮記》や《北山抄》とは違った意義を有している。源高明や藤原公任は公家の身で,実際の儀式にも多く参加していたであろうが,匡房は曾祖父匡衡以来,代々文学をもってあらわれ,後三条,白河,堀河の3代の天皇の侍読となり,中納言を経て大蔵卿となったが,その官は前者の2人に及ばなかった。ここに《江家次第》が知識としての朝儀を学問的に研究したものであった理由もある。これを藤原忠実が〈神妙なものである。ただし,さとく物を見るばかりで,さかしきひがごとなどが相まじる〉と批評しているのは,当時の儀式と遊離した点もあるところをさしたものであろう。兼良も〈江次第は延久以後の礼義なり,但し誤事などあり〉といっている。またその《江次第抄》には〈一条院以来天下の政務は一変し,白河,堀河の御宇に及んでまた大変す,ここにおいて新儀式また古礼となるなり,江次第の作やむをえずしてこれをなす〉とその製作由来を述べてある。この《江家次第》をもって私撰の大著も終わったが,この同時代には前記の知足院忠実があり,その後,保元・平治(1156-60)の時代には左大臣藤原頼長も有職の名が高く,藤原通憲(信西)も故実を復興した人として知られている。さかのぼって崇徳天皇時代には内大臣源有仁が装束の新様を出し,強(こわ)装束の発明を行ったといわれている。
平安末から鎌倉初期にかけて,家格も定まり,家々の職務が世襲化されてきたので,恒例・臨時の行事に関しても,〈某某部類記〉とか職掌別の故実,記録が多くなった。順徳天皇には《禁秘抄(きんぴしよう)》があり,大きく移り変わろうとする時勢にさいして,宮中の儀式・古例を伝えたが,年中行事は依然として朝儀として主要な地位を占め,これに関する著作も種々あらわれている。はやく葉室重隆の《雲図抄》(別名《星雲図抄》2巻,永暦1年(1160)奥書)など,行事を指図したものもあったが,この時代にはその故実・典拠をしらべた《年中行事秘抄》のようなものもでき,また《年中行事装束抄》の類も多くなった。装束全般にわたったものでは源雅亮の《満佐須計装束抄》や,土御門大納言源通方の《飾抄》3巻(嘉禎年間(1235-38))などが著名であり,衣紋(えもん)道はこのころから大炊御門家と徳大寺家とでたずさわることが多く,これがのちの高倉・山科両衣紋道の祖となっている。
南北朝になり建武中興の業を志した後醍醐天皇には《建武年中行事》と《日中行事》の著があり,それによって当時の禁中の行事作法がよくうかがわれる。また南朝の重臣北畠親房は《職原鈔》2巻(別名《官位鈔》《明職》,1341)を著して歴代官職の沿革,補任の次第を明らかにして,後世から官職研究の権威と目され,その後,二条良基も《百寮訓要抄》を著し官職の序を明らかにした。称光天皇時代には一条兼良が将軍足利義量の求めによって朝儀を説明したものといわれる《公事根源》があり,ほかにも《桃華蘂葉》《御代始抄》《二判問答》などを著してわずかに宮廷の伝統を守った。その後,三条西実隆・実枝にも故実や装束に関する著があったが,世は戦乱つづきの大火で,文籍も多く滅び,後土御門天皇より正親町天皇に至る間約100年は京都の荒廃ははなはだしく,宮城の修理はもとより儀式・典礼はおおかた停止のやむなきにいたった。
安土・桃山時代になり,織田・豊臣両氏の入京によって,皇居も整備されてきたが,さらに江戸時代になると,幕府の威儀の伸長にともなって朝儀の復興も行われるようになった。ことに将軍徳川家宣(6代),家継(7代)のころから朝廷との婚姻関係から接近もおこり,幕府の故実典礼も改められるものが多くあった。一方,朝廷においても江戸初期には後水尾天皇の《当時年中行事》があり,後西天皇は多くの古記録を写し,霊元天皇また朝儀の復興に尽力した。そして神宮造営をはじめ,停止されていた賀茂・石清水祭なども復興され,大嘗会(だいじようえ)も後柏原天皇以来160年間停止されていたが,綱吉の奏請によって東山天皇のとき1687年(貞享4年11月)に行われ,桜町天皇のときから再興された。この大嘗会については荷田在満の《大嘗会便蒙》《大嘗会儀式具釈》などの書がある。このようにしてしだいに朝儀も復興したが,中御門天皇の即位式には,武家故実の先駆者でもあった新井白石も参観し,またこのとき京都滞留中に公家の人々とも接触して,種々公家有職故実を問うたが,その著《新野問答》は野宮定基に質問したときの記録である。また当時水戸の徳川家では《儀礼類典》の大部が編纂されている。白石とおなじ時代に民間にあって有職学の先覚者である壺井義知(よしちか)(1657-1735)が出た。彼は河内の農家から身を起こし,京都に出て四辻家の青侍となり,独学で古記を探り,大成した人で,徳川吉宗に召されて江戸に出たこともあった。《職原抄通考》《官職浮説或問(わくもん)》《装束要領抄》《昔伝(せきでん)拾葉》《故実秘要抄》などの著書があり,門弟も多く,多田義俊,速水房常はその高弟で,公家も多くその列に加わった。以後京都では紀宗直,滋野井公麗,裏松光世,山田以文などが出て,官職,装束,殿舎,調度に関する研究がさかんとなった。
皇居も江戸時代になってからもたびたび類焼したが,1788年(天明8)京都大火で焼失したとき,光格天皇の復興の意図によって,老中松平定信が総裁となり,裏松光世らの考証によって,紫宸殿,清涼殿などがいくぶん平安時代の面目をとりもどした。この内裏は1790年(寛政2)落成したが,孝明天皇のとき1854年(安政1)また炎上し,翌55年にはほぼ規模を同じくした内裏が完成した。現在の京都御所は大部分このときの造営になるものである。なお前記の裏松光世には《大内裏図考証》があり,内藤広前には《大内裏図》がある。また松平定信は《輿車図考》12巻(文化1年(1804)の自序がある),《輿車図考附図》の好著を編した。このようにして江戸時代後期にはさらにいくたの著作がなされ,いちおう公武,民間の学者によって有職の研究もなしとげられたが,一方,世間にはこの有職という言葉を〈御所風〉と解するのはよいとして,近世に起こった私家の技芸や作法にまで,口伝・秘伝と称して,これを用いるものもあらわれた。明治以後,朝儀の中から唐風の部分を省いて,西洋風のものを多く取り入れたが,即位・婚儀などの重要な儀式には古風を踏襲したものもあるので,これからの有職の研究も,単に〈儀式の典型〉を求めるだけでなく,新しい儀礼形式の創造に役だつものでなければなるまい。
鎌倉時代以後武家が幕府をたて国家的権威の中心となってからは,ここにおのずから武家の儀礼が成立するようになった。源頼朝が鎌倉に政権を樹立して以来そこに行われた儀礼の中には,朝廷との関係においての公家儀式に則したものも多分にあったが,一方には彼らがもっていた固有な,地方的な儀礼が,武家の社会的位置の向上から公式化されたものも多く,これらがしだいに先例として重んぜられるようになり,ここに武家一流の故実が成立するようになった。
武家の儀礼にも恒例と臨時の行事があったが,その特色とするところはやはり武技武芸に関する方面であった。行事化された武芸はもともと公家時代からあり,かの射礼(じやらい),賭弓(のりゆみ),弓場始(ゆばはじめ),競馬(けいば),相撲などが衛府や侍臣などによって行われていたが,鎌倉幕府以後は,こうした系統のほかにさらに実技的な流鏑馬(やぶさめ),笠懸(かさがけ),牛追物(うしおうもの),草鹿(くさじし)などがとりあげられてくるようになった。一方,朝廷との関係における将軍宣下(せんげ)や任大臣の節会(せちえ),大将拝賀,直衣始(のうしはじめ)などの儀も,将軍家の儀式として固定してきたし,一族の政治・文教・武芸に関する御判始(ごはんはじめ),評定始(ひようじようはじめ),吉書始(きつしよはじめ),着甲始(ちやくこうはじめ),乗馬始,弓始(ゆみはじめ)や椀飯(おうはん),礼参などの恒例,臨時の行事が成立し,かつ個人の誕生から成人に至る間の種々の祝儀をはじめ,元服,婚礼,出産などの重要儀礼が公家のそれとは別にできあがった。このようにして鎌倉時代から室町時代において,しだいに武家儀礼が整ったが,将軍義満以後さらにそれらが整備されたのは,京都という土地がらによるところが多いといえよう。室町時代に至って幕府の儀礼に関しては伊勢・小笠原の2氏が主としてあずかり,伊勢氏は代々殿中惣奉行(でんちゆうそうぶぎよう)を職とし,殿中の礼儀作法を伝え,小笠原氏は弓道馬術の方をつかさどったが,これらの人々以外にもその職にあたった多くの人が幕府の儀礼を記録し,これを後世に伝えている。室町時代以後に著作された故実書のうちおもなものとしては,まず朝廷との関係における儀礼については,伊勢貞久の《大内問答》があり,殿中の諸事作法をしるしたものには《長禄二年以来申次記(もうしつぎのき)》,年中行事では《鎌倉年中行事》《東山殿年中行事》があり,将軍に関するものでは《将軍宣下記》以下諸記録がある。また諸番への御成始(おなりはじめ)に関する《御成記》や行装(ぎようそう)扈従(こしよう)の《供立之日記(ともだてのにつき)》,伊勢常喜の《御供故実》がある。将軍の簾中(れんちゆう)や殿中女房に関しては伊勢貞陸の《簾中旧記》《大上﨟御名事(おおじようろうおんなのこと)》《女房進退(にようぼうしんたい)》など,また婚礼については貞陸の《嫁入記》《よめむかへの事》《嫁取故実》があり,出産,書札に関するものもある。当時は料理,饗応,行酒(こうしゆ)の作法もやかましくなり,これらに関するものでは《酌幷記(しやくへいき)》《酌之次第(しやくのしだい)》や多治見貞賢の《四条流庖丁書》や《大草家料理書》《武家調味故実》などがある。故実書は種々の方面にわたったが,故実全般におよんだものとしては今川了俊の《今川大双紙》,伊勢貞頼の《宗五大双紙》また《三議一統大双紙》などがあり,殿中での心得を大小となくしるしてある。一方,武芸武具に関するものもすこぶる多く,小笠原元長の《武田射礼日記》,小笠原持長の《弓馬問答》や《流鏑馬次第》,小笠原政清の《笠掛記》,小笠原持長の《騎射秘抄》,伊勢貞忠の《犬追物手組日記》,多賀高忠の《犬追物検見記(けんみのき)》など弓馬騎射に関する幾多の著書がある。また武具については《小笠原流手綱之秘書(たづなのひしよ)》や伊勢貞為の《馬具寸方記(すんぽうき)》,小笠原長時の《馬具蘊奥(うんおう)》など多くがある。
以上のように室町時代には多くの武家礼法に関する書物が著作されたが,一般にこれらは前後の統一もなく,断片的な覚書ようのものが多く,その内容も表題に示すものにかぎらず広く殿中の瑣事にわたっている。これは武家故実が進退作法,あるいは物の包み方や渡し方などといった細かな面にまでおよんでいた結果であった。江戸時代になって江戸幕府の制度儀礼がしだいに確立すると,諸大名までそれぞれ威儀を整えるようになったが,これは江戸幕府が文教振興に力を致した結果でもあって,礼儀作法を尊ぶ風はしだいに民間にまでおよんだ。1681年(天和1)将軍徳川綱吉の子息,徳松君(とくまつぎみ)の髪置(かみおき)のとき,伊勢,小笠原の2流をさしおいて水島卜也(ぼくや)という者が幕府に用いられたことから大いに有名になったが,市井には諸礼者と称して種々の作法を教えるものが出た。しかし一方には朝儀の復興や武家制度の整備にともない,公家をはじめ武家・民間の学者の研究もしだいに深まり,室町時代の断片的な記述から体系的な研究にすすみ,故実に関する成果をあげるにいたった。その主たるものをあげると,武器武具に関するものでは新井白石の《本朝軍器考》をはじめ,伊勢貞丈の《武器考証》《座右書》,栗原信充(のぶみつ)の《武器袖鏡(そでかがみ)》《刀剣図式》《鞍鐙(あんとう)図式》など,鎧や装束については新井白石の《武家官位装束考》,大塚嘉樹の《武家装束類聚》をはじめ,伊勢貞丈の《直垂考》以下数編におよぶ装束の考証,松岡辰方(ときかた)の《武家当時装束抄》,本間百里の《服色図解》《尚古鎧色(がいしよく)一覧》などがある。なお武家一般に関するものでは塙保己一(はなわほきいち)の《武家名目抄》300余冊があり,伊勢貞丈には《安斎随筆》《貞丈雑記》《四季草》など断片的ながら広い考証があり,また屋代弘賢には《古今要覧稿》の大著があった。また武家年中行事には,北村季文の《幕朝年中行事歌合註》がある。ほかに壺井義知らの研究があり,民間でも考証随筆の風がさかんにおこった。明治維新以後あらたに洋風儀礼が政府や民間に取り入れられるようになったが,しかしなお伝統の上にたつ儀礼も少なくなく,こんにちでも故実研究の意義はなお存している。
→伊勢流 →小笠原流
執筆者:日野西 資孝
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有職は、古くは有識と書き、博識なること、歴史、文学、朝廷の儀礼によく通じていることをいう。『続日本紀(しょくにほんぎ)』の桓武(かんむ)天皇の延暦(えんりゃく)9年(790)7月の条の上表文に「応神天皇命上毛氏遠祖荒田別使於百済搜‐聘有識者」とあり、百済に使を遣じて有識者を聘し、これを皇太子の師としたとある。『三代実録』の貞観(じょうがん)5年(863)5月の条には「有識式部少輔従五位下小野朝臣篁」とあって、博識の才学をもつ人をいう。『源氏物語』「少女(おとめ)」には、源氏の長男夕霧(ゆうぎり)のことを「まことに天の下並ぶ人なきいうそくにはものせらるめれど」とあり、『大鏡(おおかがみ)』には、藤原(小野宮(おののみや))実頼(さねより)のことを「大かた何事にもいうそくに御心うるはしく」とある。
故実は、同じく古(いにしえ)の事実、古例を意味したが、『三代実録』貞観11年(869)12月の伊勢(いせ)奉幣の告文にも故実という語がみえ、『類聚国史(るいじゅうこくし)』147・国史編修の上表文にも「総而書以備故実」とみえる。こうして平安朝の初期には有職のなかに故実の意味が含まれてくる。平安朝中期以後は、宮廷に官職の歴史を調べることが盛んになってくることから、『職原抄(しょくげんしょう)』などの書物が叙述されるに至って、官職の典故沿革などを研究することが行われるようになり、識を職と書くようになった。そして、儀式の典拠の起源由来から歴史、律令格式(りつりょうきゃくしき)の制度などを調べる学を有職故実学という。毎日、毎月の儀式を作法に従って行うことが宮廷人の主要な勤めとなり、有職故実はたいせつにされるに至った。
公家(くげ)の有職は嵯峨(さが)天皇のときより始まり、村上(むらかみ)天皇および朱雀(すざく)天皇時代の摂政(せっしょう)藤原忠平(ただひら)は有職に詳しく、その子の実頼、師輔(もろすけ)、師尹(もろただ)も、それぞれ忠平の儀式作法を受け継ぎ、小野宮、九条、小一条流を名のった。中世、武家の世に入ると、公家の有職に対して武家の儀式典礼を故実とよぶようになり、公家の儀式典礼を有職、武家のそれを故実とよぶ習慣もみられたが、近世に至り、有職故実の学が定着した。有職故実は静的に定着した儀式の典型を尊重するもので、公家・武家の社会生活のうえに、必要な根拠となるものである。
[山中 裕]
『江馬務著『日本の美と教養5 有職故実』(1965・河原書店)』▽『河鰭実英編『有職故実図鑑』(1971・東京堂出版)』▽『室伏信助他編『角川小辞典17 有職故実 日本の古典』(1978・角川書店)』▽『鈴木敬三編著『有職故実 国語・国文資料図集』全3冊(1983・全教図、冬至書房新社発売)』▽『出雲路通次郎著『大礼と朝儀』(1988・臨川書店)』▽『井筒雅風他編『江馬務著作集10』(1988・中央公論社)』▽『山上伊豆母編、山上忠麿著『有職故実論集』(1993・大文字書店)』▽『石村貞吉著、嵐義人校訂『有職故実』上下(講談社学術文庫)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
「続日本紀」延暦9年(790)7月17日条に,「有識者」とあり,「源氏物語」紅葉賀の巻にも「心ことなりと世の人に思はれたるいうそくのかぎり」とみえる。「有職」と書くようになったのは,鎌倉初期と思われる。朝廷の儀式典例にくわしいことを有職,奥ゆかしく,よろずにわたり心得のある人を有職人という。公家故実は藤原忠平(ただひら)の子の実頼(さねより)・師輔(もろすけ)に始まり,その作法をそれぞれ小野宮流・九条家流と称する。以後,貴族各自が儀式行事を運営することを主として記した日記を作成し,天皇家および貴族の家は儀式書とともに,日記などによって父祖の儀式作法を子孫に家流として伝えた。室町時代には,伊勢流・小笠原流と称する武家故実もある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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