精選版 日本国語大辞典 「柴野栗山」の意味・読み・例文・類語
しばの‐りつざん【柴野栗山】
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江戸中期の儒者。名は邦彦。字(あざな)は彦輔(ひこすけ)。通称は万吉、平助。古愚軒(こぐけん)とも号す。元文(げんぶん)元年、平左衛門の長子として讃岐(さぬき)国(香川県)三木郡牟礼(むれ)村に生まれる。少年時代より高松藩の後藤芝山(ごとうしざん)(1721―1782)に学んだ。18歳のとき(1753)、江戸に出て林正懿(はやしせいい)(榴岡(りゅうこう)、1681―1758)の門人となり、以後十数年昌平黌(しょうへいこう)にあった。30歳で江戸を去って京に遊び、多くの文人・学者と交遊。32歳より阿波(あわ)国徳島藩主蜂須賀(はちすか)侯に儒臣として仕え、さらに36歳で京都堀川に塾を開いて業を講じた。1788年(天明8)53歳のとき江戸に召されて幕府の儒員、昌平黌の教官となり、以後大学頭(だいがくのかみ)林信敬(のぶたか)(1767―1793)、岡田寒泉らと学政の改革に努めた。老中松平定信(まつだいらさだのぶ)に勧めて異学の禁を発し、程朱学を振興したことは有名。その後も幕命で、畿内(きない)の古社寺の調査や外交の事の諮問にあずかることもあった。尾藤二洲(びとうじしゅう)・古賀精里(こがせいり)とともに寛政(かんせい)三博士の一人。文化(ぶんか)4年12月1日、72歳で没した。『栗山文集』5巻(1843)、『栗山堂詩集』4巻(1807ころ)などがある。
[黒住 真 2016年5月19日]
『福家惣衛著『柴野栗山』(1949/復刻版・2006・栗山顕彰会)』▽『「柴野栗山」(『森銑三著作集 第8巻』所収・1971・中央公論社)』
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(梅澤秀夫)
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江戸中期の儒学者。名は邦彦,字は彦輔,栗山は号。讃岐国牟礼村出身。江戸の林家に学び阿波藩儒に登用され,のち京都に住んで朱子学をとなえた。1788年(天明8)幕府儒員となり,松平定信の寛政改革に際してしばしば意見を具申。古学を排斥して朱子学の官学化をはかり,〈寛政異学の禁〉を建議して実現させた。また林述斎らと幕府の教学制度の確立に尽力した。〈寛政の三博士〉の一人。《栗山文集》がある。
執筆者:頼 祺一
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1736~1807.12.1
江戸後期の朱子学派の儒者。名は邦彦,字は彦輔。讃岐国生れ。高松藩儒の後藤芝山(しざん)に学んだのち,江戸の昌平黌(しょうへいこう)で修学。1767年(明和4)阿波国徳島藩に儒官として仕える。88年(天明8)松平定信に招かれ幕府に登用され,岡田寒泉とともに聖堂改革,寛政異学の禁など幕府の学政の中枢を担った。寛政の三博士の1人。著書「栗山文集」「栗山堂詩集」「資治概言」。
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