根岸寛一(読み)ネギシ カンイチ

20世紀日本人名事典 「根岸寛一」の解説

根岸 寛一
ネギシ カンイチ

昭和期の映画プロデューサー



生年
明治27(1894)年11月1日

没年
昭和38(1963)年4月28日

出生地
茨城県筑波郡小田村

旧姓(旧名)
立花

学歴〔年〕
早稲田大学政治経済科〔大正4年〕卒

経歴
明治42年上京。早大卒業後読売新聞社会部記者を経て、大正7年根岸興行部に入った。9年根岸歌劇団結成、浅草オペラ時代を現出。10年根岸家にムコ入り、関東大震災で興行部は松竹合併。14年菊池寛らの連合映画芸術家協会創立に参加、協会がダメになり浅草に戻る。昭和10年日活現代劇部撮影所(多摩川)所長、日活監査役となり、プロデューサーとして「人生劇場・青春篇」「裸の町」「情熱の詩人啄木」「蒼氓」「限りなき前進」「真実一路」「路傍の石」「五人の斥候兵」「土」「土と兵隊」などの映画を製作した。13年満州映画協会に転じ、敗戦前の20年帰国、原爆記録映画を強行製作したが接収され、公職追放。後マキノ満男を中心として満映からの引き揚げ者らを受け入れ、東横映画(現・東映)を設立した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「根岸寛一」の解説

根岸寛一 ねぎし-かんいち

1894-1963 昭和時代の映画プロデューサー。
明治27年11月1日生まれ。東京浅草の興行界で活躍ののち,昭和10年日活多摩川撮影所の所長となり,「人生劇場」「路傍の石」「土」などを製作。戦後,日本映画社社長として原爆の記録映画を製作したが,アメリカ軍に接収された。昭和38年4月28日死去。68歳。茨城県出身。早大卒。旧姓は立花。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の根岸寛一の言及

【日本映画】より

…そして31年,東亜キネマは東活映画社となって等持院で映画製作をつづけたものの,32年に解散,等持院撮影所は消滅した。この間,牧野省三は1925年,根岸寛一,直木三十五らの設立した聯合映画芸術家協会に参加したのを機に,東亜キネマから独立,京都御室天授ヶ丘に新スタジオを建ててマキノプロダクションを興し,ふたたび映画製作に乗り出して,やがて名古屋道徳の東海撮影所をマキノ中部撮影所とするに至った(1927)。だが,牧野省三の死(1929)以後,マキノ映画の勢いは衰え,32年,御室撮影所が全焼,その跡地に建てられたバラックに新会社・正映マキノが生まれたが,数ヵ月で解散し,御室撮影所はその後,東活映画社の後身・宝塚キネマに使われたのち,34年に崩壊した。…

※「根岸寛一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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