日本の城がわかる事典 「桑折西山城」の解説 こおりにしやまじょう【桑折西山城】 福島県伊達郡桑折町にあった、鎌倉時代から室町時代の城郭。国指定史跡。戦国大名の伊達氏発祥の城。源頼朝の奥州征伐(奥州藤原氏攻め)に従軍し戦功をあげ、陸奥国伊達郡を拝領した常陸入道念西(伊達朝宗)が居を構えたとされる。念西はこれを機に伊達姓を名乗り、その後裔が戦国大名、仙台藩の藩主となった。同城が伊達氏の居城(主城)となったのは1532年(天文1)。陸奥国守護に任じられた当主の伊達稙宗(たねむね)が梁川城(伊達市)から居城を移したことによる。これにより、同城は陸奥国の府城となったが、現在残る城跡の規模になったのは、この時である。ちなみに、稙宗は1536年(天文5)に、この城で分国法「塵芥集(じんかいしゅう)」を制定している。1542年(天文11)、三男の伊達実元(さねもと)を越後上杉氏へ入嗣させる問題をめぐって、嫡男の晴宗(はるむね)が稙宗を幽閉する事件が起こったのもこの城で、この事件は大規模な伊達家の御家騒動(天文の乱)へと発展した。伊達家を二分する内乱は7年に及び、同城を舞台に何度も両勢力の戦いが繰り広げられたが、しだいに晴宗方が優勢となり、両者は将軍足利義輝の命により和睦し、乱は終息した。稙宗は隠居して丸森城(宮城県伊具郡丸森町)に移り、晴宗が家督を継ぐことになった。その後、晴宗は居城を米沢城(山形県米沢市)に移したため、桑折西山城は廃城となった。江戸時代前期の1679年(延宝7)、この地に移封された本多忠国がかつての桑折西山城の一郭(西館)に築城を計画したが、その2年後に播磨姫路(兵庫県)へと国替えになったため、城の建設は幻に終わった。城跡は同町市街西方の伊達家ゆかりの寺である観音寺背後の高舘山にある。その城域は東西約1km、南北500mで、本丸、二の丸、中館・西館で構成されていた。現在は城域のほとんどは山林となっており、西館南の枡形虎口や石塁のほか、曲輪(くるわ)、土塁、空堀などの遺構が残っている。登城口までは、JR東北本線桑折駅から徒歩約15分。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報