梁瀬村(読み)やなせむら

日本歴史地名大系 「梁瀬村」の解説

梁瀬村
やなせむら

[現在地名]相良村柳瀬やなせ

球磨川に合流する川辺かわべ川の最下流域両側に村域が広がり、村の東・北・西は台地状をなし、合流点付近が低位で水田が開ける。蓑毛みのも村の北に深水ふかみ村があり、東は木上きのえ(現錦町)、西はおお(現人吉市)山田やまだ(現山江村)、南は球磨川を挟んで西にしの(現錦町)に接する。近世を通じて村名は梁瀬・簗瀬柳瀬が混用された。応永三四年(一四二七)四月七日の平河式部給分坪付(平河文書)に「人吉庄屋な瀬村」、永禄四年(一五六一)二月二八日の岩本頼真知行坪付(岡本文書)には「やなせ」とみえる。

慶長国絵図では一七八石三斗余の村高であるが、寛永一一年(一六三四)郷村高辻帳では本田高二九一石三斗余・新田畑高二七二石三斗余である。


梁瀬村
やなぜむら

[現在地名]那須町梁瀬

芋淵いもぶち村の東にある。簗瀬とも記し、集落は前梁瀬まえやなぜ後梁瀬うしろやなぜに分れていた。近世は黒羽藩領で、慶安・元禄・天保の各郷帳に村名はみえないが、「創垂可継」封域郷村誌巻一には大蔵おおくら(現黒羽町)の枝村として載る。同巻二・巻三によれば高一五五石余、反別は田方九町九反余・畑方八町一反余、家数一五。享保一三年(一七二八)の将軍徳川吉宗の日光社参の際には奥州街道芦野あしの宿の助郷(前・後の梁瀬村で合せて勤高二五〇石)を勤め(「芦野宿当分助郷帳」熊久保康正文書)、天保一〇年(一八三九)それまでの助郷負担軽減運動が実って七一石余が休役となり、勤高は八八石余となった(「芦野宿助郷議定書」松本稔文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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