椋本村(読み)むくもとむら

日本歴史地名大系 「椋本村」の解説

椋本村
むくもとむら

[現在地名]芸濃町椋本

中縄なかなわ村の東南安濃あのう川の左岸段丘上の平地に位置し、伊勢別街道が南北に貫通している。寛元二年(一二四四)の溝淵大明神造営棟札(美濃夜神社蔵)に「椋本村地頭殿 藤原」とみえ、文永七年(一二七〇)の同棟札(現存せず、寛政一〇年写による)にも「四村 椋本地頭 馬一疋」とある。また「関岡家始末」には、応安六年(一三七三)に大館氏清が「関・椋本ニテ義長(仁木)ト戦フ」とみえる。中世末期には雲林院家の支配下に入ったようで、弘治元年(一五五五)の溝淵大明神鳥居施入棟札には「大檀那雲林院工藤高均」の下に「椋本善右衛門、同源左衛門、同次郎三郎」の名がみえるし、元亀二年(一五七一)の同宝殿造立棟札には「雲林院殿為御下知執行之処也」として多くの人名が記されるなかに「椋本千二郎、椋本二郎三郎、椋本善衛門」の名がみえる(同社蔵棟札)

椋本村
むくもとむら

[現在地名]穂波町椋本

嘉穂盆地の中西部、遠賀おんが川支流穂波川の左岸に位置する。西は津原つはら村。大永四年(一五二四)少弐氏家臣小御門又次良は「穂波郡椋本十八町」などを宛行われている(同年四月八日「少弐資元書下」歴世古文書/大宰府・太宰府天満宮史料一四)。小早川時代の指出前之帳では椋本村の田一二町余(分米一九六石余)・畠九反余(分大豆四石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高四四〇石余、大豆二八石余(慶長石高帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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