安濃郡
あのぐん
石見国北東端部に位置する。「和名抄」諸本にみえ、訓は名博本・元和古活字本および「伊呂波字類抄」に「アノ」とある。明治一一年(一八七八)の島根県町村名は訓を「アンノ」とし、現在もこの呼称を使用する場合がある。安農とも記す。近世の郡域は、東は出雲国神門郡・飯石郡、南は邑智郡、西は邇摩郡、北は日本海に接し、ほぼ現在の大田市中・東部にあたる。
〔古代〕
「出雲国風土記」神門郡条に「石見国の安農郡の堺なる多伎々山に通ふは、三十三里なり」とみえ、国境の多伎々山は現在の大田市との境にあたる多伎町口田儀・奥田儀付近の山とされる。「和名抄」に波禰・刺鹿・安濃・静間・高田・川合・邑
・佐波の八郷がみえるが、佐波郷は邑智郡にも同名の郷があり、同一かどうかは不明。のち佐波郷は邑智郡に組込まれ、静間郷・川合郷の西半分も邇摩郡に組込まれたとみられる。「文徳実録」嘉祥三年(八五〇)八月一一日条に「石見守従五位下笠朝臣岑雄等奏
、所管安農郡川合郷甘露降」とみえる。同書同年九月一五日条では、詔により安農郡の当年の庸が免除されている。郡家推定地は現大田市稲用の注連田とされる(島根県史)。郡内を東西に走る山陰道は、出雲国多伎駅から石見国波禰駅に入り、邇摩郡の託農駅に通じた。「延喜式」神名帳には、物部神社(現大田市川合町川合の同名社に比定)、苅田神社(現同市久手町波根西の同名社に比定)、刺鹿神社(現同市久手町刺鹿の同名社に比定)、朝倉彦命神社(現同市朝山町朝倉の同名社に比定)、新具蘇姫命神社(現同市川合町吉永の同名社に比定)、邇弊姫神社(現同市長久町土江などの邇幣姫神社に比定)、佐比売山神社(現大田市三瓶町多根などの同名社に比定)、野井神社(現同市長久町長久の同名社に比定)、静間神社(現同市静間町静間の同名社に比定)、神辺神社(現同市鳥井町鳥越の同名社に比定)がみえる。現大田市域の現三瓶川右岸の長久地区、静間川流域の土江・稲用・延里各地区に条里遺構がみられた。
〔中世〕
貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文によると、郡内には波根庄・延里御領(現大田市)の二ヵ所の庄領五三町五段小と、川合郷・安濃吉永・行恒・稲用・長久郷・用田郷・刺賀・大田郷・大田南郷・志学・鳥居(以上現同上)の一一ヵ所、計二〇八町三段三〇〇歩の国衙領が存在しており、那賀郡に次いで国衙領の占める比率が庄領より高い。
安濃郡
あのうぐん
奄芸郡の南、一志郡の北に接する。「和名抄」東急本は「安乃」と訓じる。「万葉集」巻一四に
<資料は省略されています>
と詠まれ、「五鈴遺響」は枕詞「草蔭の」に注目して、「草蔭トハ野ト謂ハン発語ナリ、今稽ルニ阿ハ嘆美ノ辞ニテ、上世ハ曠荒ノ原野ナルヘシ」と郡名の起源を説いている。「皇太神宮儀式帳」は「安濃県造真桑枝乎、汝国名何問賜支、白久、草蔭安濃国止白支、即神御田并神戸進支」と記している。「倭姫命世記」には「草陰阿野国」とある。「延喜式」伊勢太神宮には伊勢神宮の封戸のうち「安濃郡卅五戸」とあり、天禄四年(九七三)九月一一日の太政官符(類聚符宣抄)により一郡が神宮に追加施入され、この封戸数三八九烟とある(神宮雑例集)。これは度会郡四四七烟に次ぐ数である。「三代実録」貞観三年(八六一)七月一四日条に「安濃郡百姓神人部束成、建部継束」が、課丁二一八人を隠し大帳に載せなかったとして介以下の国衙役人二七人を告発した。翌四年七月二八日条にも「伊勢国安濃郡人右弁官史生正七位上爪工仲業賜
姓安濃宿禰
、神魂命之後也」との記事を載せているように、草深かった安濃の地にも律令体制の浸透が見受けられる。
条里遺構は安濃川流域のほとんど全域にわたる広範囲に鮮やかに残され、四天王寺(現津市)の薬師如来坐像の胎内文書の康平五年(一〇六二)五月一三日の民部田所勘注状、永保二年(一〇八二)五月一〇日の大和国崇敬寺牒(「三国地志」所収)、元久二年(一二〇五)一〇月一三日の外宮一禰宜度会忠行等連署解案(光明寺古文書)、康永三年(一三四四)八月の法楽寺文書紛失記(京都市田中忠三郎氏蔵文書)には条里坪付がみえ、塔世・垂水・刑部・渋見・四賀茂(現津市)、曾禰(曾根)・内田・板糟(現安芸郡安濃町)、忍田(現同芸濃町)および中村・尾鞍・上岡・土知本・椹元・安宅・市村・三魂・片山・懸・牛父・靡井・蒭生・川村・山耳・黒坂・村柴・比々山・無酒各里の地名が散見される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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