日本歴史地名大系 「椚村」の解説 椚村くぬぎむら 福井県:坂井郡金津町椚村[現在地名]金津町椚劔(けん)ヶ岳から流れ出る清滝(きよたき)川と、刈安(かりやす)山から流れ出る権世(ごんぜ)川が合流する所にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「坪江上郷之東」に含まれる。村名は正保郷帳にみえ、田方二三三石余・畠方一二二石余。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となるが、文政三年(一八二〇)以降福井藩領。元禄八年(一六九五)の後山組十七ケ村村方書上(宗石家文書)によれば、村高三五五石余のうち二三二石余が清滝村・鎌谷(かまだに)村・権世村・前谷(まえだに)村からの入作となっており、家数二一(本百姓八・水呑百姓一三)。散剥山(入会山)から刈取った草を肥料として用い、同山から柴薪を切出し、生活の一助にしていた。 椚村くぬぎむら 埼玉県:北葛飾郡庄和町椚村[現在地名]庄和町椚立野(たての)村の東にある。正保元年(一六四四)以降の開発で、慶安(一六四八―五二)頃に椚村新田とし、延宝三年(一六七五)に椚村と称したという(郡村誌)。同年の検地帳(土生津家文書)によると田一三町一反余・畑五四町九反余・屋敷七町六反余で、元禄郷帳に村名がみえ、高六二二石余。当初幕府領であったが、のち旗本の相給地を含み、文化元年(一八〇四)の関宿領・庄内領惣新田組村高地頭姓名書上控(石川家文書)では幕府領一九六石余、旗本山本領一三〇石余、同小出・松波・岡野各領は九八石余となっている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by