20世紀日本人名事典 「樋口光訓」の解説 樋口 光訓ヒグチ ミツノリ 江戸時代末期〜大正期の国学者 生年天保13年9月5日(1842年) 没年大正4(1915)年11月12日 出身地陸奥国(福島県) 別名通称=真彦,号=蒼龍 経歴樋口勘次光武の長男として生まれる。会津藩校・日新館に学び、14歳で同大学に進む。文久2年(1862年)藩主・松平容保と共に上洛、京都守護職在任中の容保に書を呈して時務を論じた。明治維新後、岩倉具視の知遇を得てその邸内に移り、西南戦争の際に功績を立てる。のち愛君社を創設し皇道を唱え、皇典講究所(のちの国学院大学)創立の基礎を作った。 出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「樋口光訓」の解説 樋口光訓 ひぐち-みつのり 1842-1915 明治時代の国学者。天保(てんぽう)13年9月5日生まれ。もと陸奥(むつ)会津(あいづ)藩(福島県)藩士。岩倉具視(ともみ)にみとめられ,西南戦争の際に功績があった。愛君社を創設して皇道をとなえ,皇典講究所(現国学院大)創立の基礎をつくった。大正4年11月12日死去。74歳。通称は真彦。号は蒼竜。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by