岩倉具視(読み)イワクラトモミ

デジタル大辞泉 「岩倉具視」の意味・読み・例文・類語

いわくら‐ともみ〔いはくら‐〕【岩倉具視】

[1825~1883]公卿・政治家。京都の生まれ。幕末に公武合体を説き、のち、王政復古の実現に参画。明治維新後、右大臣。特命全権大使として欧米の文化・制度を視察。帰国後は内治策に努めた。明治憲法の制定に尽力。

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精選版 日本国語大辞典 「岩倉具視」の意味・読み・例文・類語

いわくら‐ともみ【岩倉具視】

  1. 公卿。政治家。京都の人。号は対岳。岩倉具慶(ともやす)の養子。公武合体を唱え、和宮(かずのみや)降嫁を策して四奸の一人とされ、文久二年(一八六二)官を辞した。討幕運動に加わり、維新後、要職を歴任。特命全権大使として政府首脳を率い渡欧。また、征韓論に反対し、欽定(きんてい)憲法の制定を主唱した。文政八~明治一六年(一八二五‐八三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「岩倉具視」の意味・わかりやすい解説

岩倉具視
いわくらともみ
(1825―1883)

幕末・明治前期の政治家。公卿(くぎょう)として三条実美(さんじょうさねとみ)とともに明治政府の最高指導者の位置にあった。前権中納言(ごんちゅうなごん)堀河康親(ほりかわやすちか)の次子として文政(ぶんせい)8年9月15日京都に生まれ、岩倉具慶(ともやす)の養嗣子(ようしし)となった。幼名を周丸(かねまる)、号を対岳と称した。1853年(嘉永6)歌道を通じて関白鷹司政通(たかつかさまさみち)に接し、翌年孝明(こうめい)天皇の侍従となる。1858年(安政5)幕府の老中堀田正睦(ほったまさよし)が日米修好通商条約の勅許を奏請したことに対して、同志の公卿とともに、条約一件を朝廷が幕府に委任することに反対して、大原重徳(おおはらしげとみ)らと提携、「神州萬歳堅策」を起草、内奏し、攘夷(じょうい)のための武備充実を主張した。1860年(万延1)桜田門外の変で大老井伊直弼(いいなおすけ)が殺害されたのち、幕府が公武合体策を進め、皇女和宮(かずのみや)の降嫁を実現すると、朝廷側にあって対幕交渉の実力者の立場にあった岩倉は、それに協力する態度をとった。そのためもあって、尊攘派の志士たちは岩倉を佐幕派公卿として排撃し、「四奸」の一人として朝廷にその処罰を奏請した。そうした圧力により、岩倉は辞官、剃髪(ていはつ)して、名を友山と改め、その知行地(ちぎょうち)であった京都・洛北(らくほく)の岩倉村に身を潜めることを余儀なくされた。その間にも、岩倉は尊攘運動の動きに注目し、1866年(慶応2)「叢裡鳴蟲(そうりめいちゅう)」「全国合同策」などの意見書を起草、朝廷を中心に国権の統一を主張した。さらにその翌年には、かねて志を通じていた討幕派諸藩の下士層と策略を進めて、薩長(さっちょう)2藩に討幕の密勅を下賜させることに成功、王政復古の実現に貢献した。

 明治新政府の成立とともに、参与、議定(ぎじょう)から副総裁兼海陸軍事務総督、会計事務総督、ついで大納言となり、永世禄(えいせいろく)として5000石を授けられた。さらに版籍奉還、廃藩置県にも奔走し、1871年(明治4)には右大臣に昇任した。また同年、条約改正交渉と米欧視察のため、特命全権大使として使節団を引率して外国を巡回し、1873年に帰国した。その直後、西郷隆盛(さいごうたかもり)らが主張した征韓論に対して、岩倉は大久保利通(おおくぼとしみち)らと組んでそれを退けた。そのため、1874年東京の赤坂喰違(あかさかくいちがい)において征韓派の不平士族たちに襲われた。

 その後、自由民権運動の高揚に対して、岩倉は天皇を中心に明治国家の基礎を固める方針を採用し、それを推進するために、順次、措置を講じた。まず1878年宮内省内規取調局総裁に就任し、1881年には井上毅(いのうえこわし)に命じて「大綱領」を起草させた。そこには後の帝国憲法の枠組みが示されていた。また岩倉は皇室財産の拡充、日本鉄道会社の設立にも関与するなど、三条実美や大久保利通らと協力、最高の実権者の一人、絶対主義政府の専制支配者として行動した。明治16年7月20日、59歳で没。国葬。没後贈正一位、太政大臣(だじょうだいじん)。

[石塚裕道]

『宮内省編『岩倉公実記』全3巻(1906・岩倉公旧蹟保存会)』『大久保利謙著『岩倉具視』(中公新書)』


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改訂新版 世界大百科事典 「岩倉具視」の意味・わかりやすい解説

岩倉具視 (いわくらともみ)
生没年:1825-83(文政8-明治16)

明治維新期における公卿出身の政治家。権中納言堀河康親の次男。養父は岩倉具慶(ともやす)。幼名は周丸(かねまる),号は対岳。1838年(天保9)従五位下から61年(文久1)正四位下へ。この間,侍従,右近衛権少将を経て,62年,左近衛権中将。58年(安政5)には,幕府の要求する日米修好通商条約の勅許に88人の公家の〈列参(集団行動)〉で反対し,また,公武合体をとなえて和宮降嫁を推進,尊攘派からは久我建通,千種有文,富小路敬直らとともに〈四奸〉の一人としてねらわれた。62年,辞官落飾,法名は友山,京都の岩倉村に潜居した。この幽居中にも朝権の確立をめざした〈叢裡鳴虫〉や朝廷中心の国権一元化構想を示した〈全国合同策〉などを草し,また,廷臣や薩摩藩士らと画策して倒幕運動を進めた。66年(慶応2)末の孝明天皇の急死では,毒殺説が流布し,岩倉に疑惑がかけられた。翌年,明治天皇のもとで勅勘が許され,〈王政復古〉クーデタで参与となり,以後,新政府において,議定,副総裁,権大納言,大納言,右大臣など,中枢に位置した。この間,69年(明治2)には正二位に叙せられ,永世禄5000石を下賜されている。71年,特命全権大使として木戸孝允,大久保利通,伊藤博文らとともに米欧に出かけて12ヵ国を回覧,アメリカではグラント大統領に謁し,ドイツではビスマルクモルトケと会見したりした(岩倉使節団)。帰国後,73年のいわゆる征韓論に対しては,大久保,木戸らと反対し,明治6年10月の政変の結果,大久保政権が実現した。74年,赤坂喰違坂で征韓論支持者に襲われ,76年には従一位となり,また,勲一等に叙せられ,旭日大綬章を授けられている。この年,華族会館長に推任され,以後77年第十五銀行(華族銀行),81年日本鉄道会社をおこして華族のために尽力するとともに,士族授産にも努力した。政体確立をめざした岩倉は,外遊,士族反乱,対朝鮮・台湾問題,〈漸次国家立憲ノ政体〉樹立の詔勅などの過程で,天皇制の制度的確立を念頭におき,自由民権運動とはまっこうから対抗した。78年から82年にかけての彼の相つぐ意見書は,いかに皇室の基礎を固め,その藩屛を強化するかに腐心していることを示している。そして,懐刀としての太政官大書記官井上毅を駆使して明治憲法の基本構想をつくり,明治14年の政変後,政局の主導権を握った伊藤博文をドイツに派遣,明治憲法起草の準備にあたらせたが,83年病死した。国葬,翌年正一位を追贈された。岩倉の病状をみとったドイツ人ベルツは,岩倉を評して〈全身ただこれ鉄の意志〉と述べた。この〈鉄の意志〉は,幕末以来岩倉がつねにクーデタないし政変の推進者または協力者であったことに示されており,それはまた彼が権謀術数の政治家であったことを物語っている。
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百科事典マイペディア 「岩倉具視」の意味・わかりやすい解説

岩倉具視【いわくらともみ】

明治維新期の公卿出身の政治家。権中納言堀河康親の子,岩倉具慶(ともやす)の養子。1854年孝明天皇の侍従,1862年左近衛権中将。1858年日米修好通商条約の勅許を求めて入京した老中堀田正睦を失敗させた(条約勅許問題)。公武合体を唱え和宮降嫁に尽力,久我建通(こがたけみち)ら尊攘(そんじょう)派に弾劾され洛北の岩倉村にこもる。この間次第に討幕派と接近,1867年明治天皇のもとで王政復古のクーデタを行い,維新政府の中枢となる。1871年―1873年岩倉使節団を率いて米欧を離れ,帰国後は,征韓論に反対,民権運動に対しては井上毅に天皇制擁護のため欽定(きんてい)憲法の原則を起草させた。また宮廷改革にも意を配り,皇室財産確立を意図するなど,近代天皇制の確立に努めた。→日本鉄道
→関連項目赤坂喰違の変大久保利通小御所会議薩土盟約三職廃藩置県

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朝日日本歴史人物事典 「岩倉具視」の解説

岩倉具視

没年:明治16.7.20(1883)
生年:文政8.9.15(1825.10.26)
幕末の公家,明治初年の政治家。堀河康親の2子に生まれ,14歳で岩倉具慶の養子となる。岩倉家は村上源氏久我家の庶流。祖先に宝暦事件で処罰された尚具がいて「村上源氏の名声を汚すなかれ」の言を遺した。村上源氏には藤原氏と拮抗した栄光の過去があり,天皇親政への憧憬があった。 安政5(1858)年2月,老中堀田正睦が上洛し日米修好通商条約調印の承認を求めたとき,宗家久我建通と図り88廷臣列参奏上を行い,朝議を調印反対に導く。万延1(1860)年,大老井伊直弼の横死(桜田門外の変)に幕府衰亡の兆しをみて王政復古への策動を始めた。とはいえ下級公家のこと,これへの達成の手段は諸々の政治勢力を操作する「調和駕御」をおいてほかにない。操作し続け,限界に達して決断する,これが以降の行動様式となる。皇女和宮(静寛院宮)と将軍徳川家茂との婚姻に賛成,それを機に朝廷勢力の幕府内部への扶植を図ろうとした。文久1(1861)年和宮に随従し江戸に赴き帰京。翌年4月島津久光に面会,「三事策」を提示して公武合体運動を支持した。だが尊王攘夷派の志士,廷臣から和宮降嫁を進めたことを非難され,久我建通,千種有文,富小路敬直と共に辞官・落飾の処分を受け,ために僧形となり法名を友山とし洛北岩倉村に居を移した。時に38歳。 慶応1(1865)年春ごろ非蔵人松尾相永の訪問を受けてより,同志の廷臣・薩摩藩士との交流が再開し,政界復帰への意欲を深める。翌2年8月,親幕派の関白二条斉敬,朝彦親王の追放を策謀,同志の大原重徳,中御門経之ら22名は列参奏上を敢行したが失敗した。3年6月,坂本竜馬,中岡慎太郎,次いで大久保利通との交流が始まった。10月,中山忠能,正親町三条実愛,中御門経之と画策して薩長両藩に討幕の密勅を下す。両藩の協力を得て王政復古を構想,12月8日処分を解除され,翌9日政変を断行。新政府の参与,次いで議定。 翌明治1(1868)年1月三条実美と共に副総裁,次いで共に輔相に任命され新政府の最高位に上げられたが,翌年1月辞任。以来,第一人者の地位を避けた。同年8月,王政復古の功により永世禄5000石を与えられる。翌3年勅使として鹿児島,山口へ赴き,島津久光,毛利敬親に面会,新政府強化のため両藩の協力を要請。4年7月の廃藩置県に伴う官制改革で外務卿。10月右大臣,11月特命全権大使として渡航,米欧各国を歴訪して同6年9月帰国(岩倉遣外使節団)。折からの西郷隆盛の朝鮮派遣(征韓論)を巡る対立に調停を企て成らず,大久保利通と共にこれを否決(明治6年の政変)。翌7年1月赤坂喰違で征韓派の士族に襲われる。自由民権運動に対抗し,巨大な天皇大権を内容とする欽定憲法を構想。また皇室基盤の強化を図り,同9年4月華族会館長に就任,華族銀行(第十五国立銀行)の設立,華士族授産,皇室財産の確立,京都皇宮保存などに力を尽くす。食道癌により没。太政大臣が贈官され,国葬をもって送られた。<参考文献>『岩倉具視関係文書』,多田好問『岩倉公実記』,大久保利謙『岩倉具視』

(井上勲)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「岩倉具視」の解説

岩倉 具視
イワクラ トモミ


肩書
太政大臣

別名
雅号=対岳

生年月日
文政8年9月15日(1825年)

出生地
京都

経歴
岩倉家の養子に入る。安政元年(1854)孝明天皇の侍従、左近衛権中将となり、日米修好通商条約勅許に反対。のち公武合体に尽くし、和宮降嫁を斡旋したが、尊皇攘夷派の非難を浴びて蟄居、剃髪して岩倉村に棲んだ。その後討幕を唱え、慶応3年(1867)大久保利通らと王政復古を画策した。維新後、新政府の中心人物となり、参与、副総裁、大納言を経て、明治4年右大臣。条約改正の特命全権大使として欧米に渡った。6年帰国後征韓論に反対し、天皇制による立憲制確立のため自由民権運動などを弾圧、絶対主義的政府の基礎を築いた。また第十五国立銀行、日本鉄道会社を設立した。国葬。著書に「叢裡鳴虫」「全国合同策」、資料集に「岩倉具視関係文書」(マイクロフィルム・全54巻)など。

受賞
正一位〔明治18年〕

没年月日
明治16年7月20日

家族
父=堀川 康親(権中納言) 養父=岩倉 具慶(正三位)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「岩倉具視」の解説

岩倉具視
いわくらともみ

1825.9.15~83.7.20

幕末~明治前期の政治家。下級公卿堀河康親(やすちか)の次男。京都生れ。幼名周丸(かねまる),号は華竜,のち対岳。14歳で岩倉具慶(ともやす)の養子となる。宮中に出仕し,侍従・近習を勤め,1858年(安政5)条約勅許問題で中山忠能(ただやす)らとともに幕府に反対。ついで公武合体を意図し和宮(かずのみや)降嫁を画策。そのため尊攘派から奸物視されて朝廷から退けられ,岩倉村に潜居。大久保利通(としみち)など薩長の倒幕派と接触を深め,67年(慶応3)王政復古の実現に暗躍した。新政府成立により参与・議定・外務卿などを歴任。71年(明治4)廃藩置県後に右大臣。71~73年特命全権大使として欧米を視察し,帰国直後,内治優先論の立場から西郷隆盛の朝鮮遣使(いわゆる征韓論)を阻止した。74年不平士族に襲撃され負傷。81年プロイセン流憲法の制定を説く意見書(井上毅(こわし)執筆)を提出し,大隈重信のイギリス流政党政治の実現を説く「国会開設奏議」に対抗,明治14年の政変に深く関与した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「岩倉具視」の解説

岩倉具視 いわくら-ともみ

1825-1883 幕末-明治時代の政治家。
文政8年9月15日生まれ。堀河康親の次男。岩倉具慶(ともやす)の養子。嘉永(かえい)7年孝明天皇の侍従。公武合体をとなえて和宮(かずのみや)降嫁をすすめ,尊攘(そんじょう)派によって一時宮中を追われる。薩長(さっちょう)倒幕派とむすんで慶応3年王政復古を実現し,議定,副総裁として新政府の中枢にすわる。明治4年特命全権大使となり欧米各国を歴訪。帰国後,三条実美(さねとみ)太政大臣の代理として征韓論をしりぞける。自由民権運動の高まりに抗して,欽定(きんてい)憲法制定の方針をさだめた。華族の財産保護を目的とした第十五銀行,華族の事業の日本鉄道会社を設立するなど,華族の地位擁護につとめた。公爵。明治16年7月20日死去。59歳。京都出身。幼名は周丸(かねまる)。号は華竜,対岳。法名は友山。
【格言など】時日と忍耐とは桑葉をして絨毯(じゅうたん)に変ぜしむ(暑中見舞いのことば)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「岩倉具視」の意味・わかりやすい解説

岩倉具視
いわくらともみ

[生]文政8(1825).9.15. 京都
[没]1883.7.20. 東京
明治維新の元勲。中納言堀河康親の子,天保8 (1837) 年岩倉具慶の養子となった。慶応3 (68) 年 12月9日の小御所会議には大久保利通,西郷隆盛らと組んで王政復古,維新政府樹立の側に立った。明治4 (71) 年特命全権大使として伊藤博文らとともに欧米を視察。 1873年9月帰国後,征韓論に反対し,同 10月 20日太政大臣代理となり,同 24日征韓中止の勅裁を得た。

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旺文社日本史事典 三訂版 「岩倉具視」の解説

岩倉具視
いわくらともみ

1825〜83
幕末・明治初期の政治家
公卿出身。公武合体論を唱え,和宮降嫁 (かずのみやこうか) に尽力したが,のち尊王討幕派と結び,王政復古のクーデタを成功させた。明治新政府の参与・右大臣などの要職を歴任し,1871年全権大使として欧米を視察した。帰国後は征韓論に反対し,自由民権運動を抑え天皇制を擁護するために欽定憲法制定の基本方針を定め,皇室財産の充実に努力した。

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367日誕生日大事典 「岩倉具視」の解説

岩倉 具視 (いわくら ともみ)

生年月日:1825年9月15日
江戸時代;明治時代の公卿;政治家
1883年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の岩倉具視の言及

【岩倉使節団】より

…1871‐73年(明治4‐6),特命全権大使岩倉具視を中心とした米欧回覧の使節団。その目的は,(1)幕末に条約を結んだ国への新政府による国書の奉呈,(2)上記条約改正への予備交渉,(3)米欧各国の近代的制度・文物の調査・研究であったが,(2)の問題では成功せず,もっぱら(1)と(3)を主として遂行した。…

【皇室財産】より

…すなわち81年10月国会開設の詔を機に民権運動が高揚すると,憲法実施前に皇室財産を設定せよとの建議があいついだ。その中でも有名なのは,81年9月と82年2月に提出された右大臣岩倉具視の意見書である。岩倉は国会開設後,政府と政党との対立が激化することを予想し,陸海軍の経費や予算案が成立しない場合には皇室財産によって支弁できるだけの準備をととのえておく必要を説いた。…

【条約改正】より

…その後,政府は条約改正の予備交渉とその前提となる近代的法治国家への改編準備のため岩倉使節団を米欧回覧に派遣した。岩倉具視らは途中アメリカで交渉に入ったが,領事裁判権撤廃,関税自主権承認などの日本側の希望は受け入れられず,かえって外国人への内地開放,日本の輸出税廃止,地方行政規則や貿易港則の制定についての事前協議を要求されたため,以後,交渉をやめた。岩倉らはこの経験から,条約改正による完全独立には内政改革の先行が条件であると確信して帰国し,征韓派と対立して明治6年の政変(1873)を惹起した。…

【蟄居】より

…江戸時代にも公家・武家等に例外的な刑罰として行われた。岩倉具視は1862年(文久2)和宮降嫁を推進したことから尊攘派の糾弾するところとなり,辞官蟄居を命ぜられた。1792年(寛政4)《海国兵談》を著した林子平は兄嘉膳方に引き渡し在所において蟄居を命ぜられた。…

【日本鉄道会社】より

…略称,日鉄。華士族の財産(金禄公債など)を鉄道に投資することにより,彼らの物質的地位の安定,ならびに沿線の産業開発をはかることを目的に,岩倉具視らが中心となって,1881年に設立された。当初は全国的な規模での鉄道建設を計画したが,実際に建設したのは現在のJRの高崎線(1884年に上野~高崎間が全通),東北本線(1891年に上野~青森間が全通),常磐線の大部分(1898年に上野~岩沼間が全通)などであった。…

※「岩倉具視」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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