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岩倉具視 いわくら ともみ

美術人名辞典の解説

岩倉具視

幕末・明治の公卿政治家。公爵。京都生。堀川康親の子。岩倉具慶の養子。号は対岳。公武合体を唱え大久保利通らと王政復古を画策。新政権樹立後、参与・大納言等を歴任し廃藩置県を断行。右大臣となり、条約改正交渉と米欧視察のため特命全権大使として外国を巡回。憲法体制の基本方針を定めた。明治16年(1883)歿、59才。

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百科事典マイペディアの解説

岩倉具視【いわくらともみ】

明治維新期の公卿出身の政治家。権中納言堀河康親の子,岩倉具慶(ともやす)の養子。1854年孝明天皇の侍従,1862年左近衛権中将。1858年日米修好通商条約の勅許を求めて入京した老中堀田正睦を失敗させた(条約勅許問題)。
→関連項目赤坂喰違の変大久保利通小御所会議薩土盟約三職廃藩置県

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

岩倉具視 いわくら-ともみ

1825-1883 幕末-明治時代の政治家。
文政8年9月15日生まれ。堀河康親の次男。岩倉具慶(ともやす)の養子。嘉永(かえい)7年孝明天皇の侍従。公武合体をとなえて和宮(かずのみや)降嫁をすすめ,尊攘(そんじょう)派によって一時宮中を追われる。薩長(さっちょう)倒幕派とむすんで慶応3年王政復古を実現し,議定,副総裁として新政府の中枢にすわる。明治4年特命全権大使となり欧米各国を歴訪。帰国後,三条実美(さねとみ)太政大臣の代理として征韓論をしりぞける。自由民権運動の高まりに抗して,欽定(きんてい)憲法制定の方針をさだめた。華族の財産保護を目的とした第十五銀行,華族の事業の日本鉄道会社を設立するなど,華族の地位擁護につとめた。公爵。明治16年7月20日死去。59歳。京都出身。幼名は周丸(かねまる)。号は華竜,対岳。法名は友山。
【格言など】時日と忍耐とは桑葉をして絨毯(じゅうたん)に変ぜしむ(暑中見舞いのことば)

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朝日日本歴史人物事典の解説

岩倉具視

没年:明治16.7.20(1883)
生年:文政8.9.15(1825.10.26)
幕末の公家,明治初年の政治家。堀河康親の2子に生まれ,14歳で岩倉具慶の養子となる。岩倉家は村上源氏久我家の庶流。祖先に宝暦事件で処罰された尚具がいて「村上源氏の名声を汚すなかれ」の言を遺した。村上源氏には藤原氏と拮抗した栄光の過去があり,天皇親政への憧憬があった。 安政5(1858)年2月,老中堀田正睦が上洛し日米修好通商条約調印の承認を求めたとき,宗家久我建通と図り88廷臣列参奏上を行い,朝議を調印反対に導く。万延1(1860)年,大老井伊直弼の横死(桜田門外の変)に幕府衰亡の兆しをみて王政復古への策動を始めた。とはいえ下級公家のこと,これへの達成の手段は諸々の政治勢力を操作する「調和駕御」をおいてほかにない。操作し続け,限界に達して決断する,これが以降の行動様式となる。皇女和宮(静寛院宮)と将軍徳川家茂との婚姻に賛成,それを機に朝廷勢力の幕府内部への扶植を図ろうとした。文久1(1861)年和宮に随従し江戸に赴き帰京。翌年4月島津久光に面会,「三事策」を提示して公武合体運動を支持した。だが尊王攘夷派の志士,廷臣から和宮降嫁を進めたことを非難され,久我建通,千種有文,富小路敬直と共に辞官・落飾の処分を受け,ために僧形となり法名を友山とし洛北岩倉村に居を移した。時に38歳。 慶応1(1865)年春ごろ非蔵人松尾相永の訪問を受けてより,同志の廷臣・薩摩藩士との交流が再開し,政界復帰への意欲を深める。翌2年8月,親幕派の関白二条斉敬,朝彦親王の追放を策謀,同志の大原重徳,中御門経之ら22名は列参奏上を敢行したが失敗した。3年6月,坂本竜馬,中岡慎太郎,次いで大久保利通との交流が始まった。10月,中山忠能,正親町三条実愛,中御門経之と画策して薩長両藩に討幕の密勅を下す。両藩の協力を得て王政復古を構想,12月8日処分を解除され,翌9日政変を断行。新政府の参与,次いで議定。 翌明治1(1868)年1月三条実美と共に副総裁,次いで共に輔相に任命され新政府の最高位に上げられたが,翌年1月辞任。以来,第一人者の地位を避けた。同年8月,王政復古の功により永世禄5000石を与えられる。翌3年勅使として鹿児島,山口へ赴き,島津久光,毛利敬親に面会,新政府強化のため両藩の協力を要請。4年7月の廃藩置県に伴う官制改革で外務卿。10月右大臣,11月特命全権大使として渡航,米欧各国を歴訪して同6年9月帰国(岩倉遣外使節団)。折からの西郷隆盛の朝鮮派遣(征韓論)を巡る対立に調停を企て成らず,大久保利通と共にこれを否決(明治6年の政変)。翌7年1月赤坂喰違で征韓派の士族に襲われる。自由民権運動に対抗し,巨大な天皇大権を内容とする欽定憲法を構想。また皇室基盤の強化を図り,同9年4月華族会館長に就任,華族銀行(第十五国立銀行)の設立,華士族授産,皇室財産の確立,京都皇宮保存などに力を尽くす。食道癌により没。太政大臣が贈官され,国葬をもって送られた。<参考文献>『岩倉具視関係文書』,多田好問『岩倉公実記』,大久保利謙『岩倉具視』

(井上勲)

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世界大百科事典 第2版の解説

いわくらともみ【岩倉具視】

1825‐83(文政8‐明治16)
明治維新期における公卿出身の政治家。権中納言堀河康親の次男。養父は岩倉具慶(ともやす)。幼名は周丸(かねまる),号は対岳。1838年(天保9)従五位下から61年(文久1)正四位下へ。この間,侍従,右近衛権少将を経て,62年,左近衛権中将。58年(安政5)には,幕府の要求する日米修好通商条約の勅許に88人の公家の〈列参(集団行動)〉で反対し,また,公武合体をとなえて和宮降嫁を推進,尊攘派からは久我建通,千種有文,富小路敬直らとともに〈四奸〉の一人としてねらわれた。

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大辞林 第三版の解説

いわくらともみ【岩倉具視】

1825~1883) 公卿・政治家。京都の人。初め公武合体に努め、のち、討幕運動に参加。維新後右大臣となり、特命全権大使として欧米視察。帰国後征韓派を退け、内治優先・天皇制確立の政策を遂行。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

岩倉具視
いわくらともみ

[生]文政8(1825).9.15. 京都
[没]1883.7.20. 東京
明治維新の元勲。中納言堀河康親の子,天保8 (1837) 年岩倉具慶の養子となった。慶応3 (68) 年 12月9日の小御所会議には大久保利通,西郷隆盛らと組んで王政復古,維新政府樹立の側に立った。明治4 (71) 年特命全権大使として伊藤博文らとともに欧米を視察。 1873年9月帰国後,征韓論に反対し,同 10月 20日太政大臣代理となり,同 24日征韓中止の勅裁を得た。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

岩倉具視
いわくらともみ
(1825―1883)

幕末・明治前期の政治家。公卿(くぎょう)として三条実美(さんじょうさねとみ)とともに明治政府の最高指導者の位置にあった。前権中納言(ごんちゅうなごん)堀河康親(ほりかわやすちか)の次子として文政(ぶんせい)8年9月15日京都に生まれ、岩倉具慶(ともやす)の養嗣子(ようしし)となった。幼名を周丸(かねまる)、号を対岳と称した。1853年(嘉永6)歌道を通じて関白鷹司政通(たかつかさまさみち)に接し、翌年孝明(こうめい)天皇の侍従となる。1858年(安政5)幕府の老中堀田正睦(ほったまさよし)が日米修好通商条約の勅許を奏請したことに対して、同志の公卿とともに、条約一件を朝廷が幕府に委任することに反対して、大原重徳(おおはらしげとみ)らと提携、「神州萬歳堅策」を起草、内奏し、攘夷(じょうい)のための武備充実を主張した。1860年(万延1)桜田門外の変で大老井伊直弼(いいなおすけ)が殺害されたのち、幕府が公武合体策を進め、皇女和宮(かずのみや)の降嫁を実現すると、朝廷側にあって対幕交渉の実力者の立場にあった岩倉は、それに協力する態度をとった。そのためもあって、尊攘派の志士たちは岩倉を佐幕派公卿として排撃し、「四奸」の一人として朝廷にその処罰を奏請した。そうした圧力により、岩倉は辞官、剃髪(ていはつ)して、名を友山と改め、その知行地(ちぎょうち)であった京都・洛北(らくほく)の岩倉村に身を潜めることを余儀なくされた。その間にも、岩倉は尊攘運動の動きに注目し、1866年(慶応2)「叢裡鳴蟲(そうりめいちゅう)」「全国合同策」などの意見書を起草、朝廷を中心に国権の統一を主張した。さらにその翌年には、かねて志を通じていた討幕派諸藩の下士層と策略を進めて、薩長(さっちょう)2藩に討幕の密勅を下賜させることに成功、王政復古の実現に貢献した。
 明治新政府の成立とともに、参与、議定(ぎじょう)から副総裁兼海陸軍事務総督、会計事務総督、ついで大納言となり、永世禄(えいせいろく)として5000石を授けられた。さらに版籍奉還、廃藩置県にも奔走し、1871年(明治4)には右大臣に昇任した。また同年、条約改正交渉と米欧視察のため、特命全権大使として使節団を引率して外国を巡回し、1873年に帰国した。その直後、西郷隆盛(さいごうたかもり)らが主張した征韓論に対して、岩倉は大久保利通(おおくぼとしみち)らと組んでそれを退けた。そのため、1874年東京の赤坂喰違(あかさかくいちがい)において征韓派の不平士族たちに襲われた。
 その後、自由民権運動の高揚に対して、岩倉は天皇を中心に明治国家の基礎を固める方針を採用し、それを推進するために、順次、措置を講じた。まず1878年宮内省内規取調局総裁に就任し、1881年には井上毅(いのうえこわし)に命じて「大綱領」を起草させた。そこには後の帝国憲法の枠組みが示されていた。また岩倉は皇室財産の拡充、日本鉄道会社の設立にも関与するなど、三条実美や大久保利通らと協力、最高の実権者の一人、絶対主義政府の専制支配者として行動した。明治16年7月20日、59歳で没。国葬。没後贈正一位、太政大臣(だじょうだいじん)[石塚裕道]
『宮内省編『岩倉公実記』全3巻(1906・岩倉公旧蹟保存会) ▽大久保利謙著『岩倉具視』(中公新書)』

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世界大百科事典内の岩倉具視の言及

【岩倉使節団】より

…1871‐73年(明治4‐6),特命全権大使岩倉具視を中心とした米欧回覧の使節団。その目的は,(1)幕末に条約を結んだ国への新政府による国書の奉呈,(2)上記条約改正への予備交渉,(3)米欧各国の近代的制度・文物の調査・研究であったが,(2)の問題では成功せず,もっぱら(1)と(3)を主として遂行した。…

【皇室財産】より

…すなわち81年10月国会開設の詔を機に民権運動が高揚すると,憲法実施前に皇室財産を設定せよとの建議があいついだ。その中でも有名なのは,81年9月と82年2月に提出された右大臣岩倉具視の意見書である。岩倉は国会開設後,政府と政党との対立が激化することを予想し,陸海軍の経費や予算案が成立しない場合には皇室財産によって支弁できるだけの準備をととのえておく必要を説いた。…

【条約改正】より

…その後,政府は条約改正の予備交渉とその前提となる近代的法治国家への改編準備のため岩倉使節団を米欧回覧に派遣した。岩倉具視らは途中アメリカで交渉に入ったが,領事裁判権撤廃,関税自主権承認などの日本側の希望は受け入れられず,かえって外国人への内地開放,日本の輸出税廃止,地方行政規則や貿易港則の制定についての事前協議を要求されたため,以後,交渉をやめた。岩倉らはこの経験から,条約改正による完全独立には内政改革の先行が条件であると確信して帰国し,征韓派と対立して明治6年の政変(1873)を惹起した。…

【蟄居】より

…江戸時代にも公家・武家等に例外的な刑罰として行われた。岩倉具視は1862年(文久2)和宮降嫁を推進したことから尊攘派の糾弾するところとなり,辞官蟄居を命ぜられた。1792年(寛政4)《海国兵談》を著した林子平は兄嘉膳方に引き渡し在所において蟄居を命ぜられた。…

【日本鉄道会社】より

…略称,日鉄。華士族の財産(金禄公債など)を鉄道に投資することにより,彼らの物質的地位の安定,ならびに沿線の産業開発をはかることを目的に,岩倉具視らが中心となって,1881年に設立された。当初は全国的な規模での鉄道建設を計画したが,実際に建設したのは現在のJRの高崎線(1884年に上野~高崎間が全通),東北本線(1891年に上野~青森間が全通),常磐線の大部分(1898年に上野~岩沼間が全通)などであった。…

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