幕末・明治前期の政治家。公卿(くぎょう)として三条実美(さんじょうさねとみ)とともに明治政府の最高指導者の位置にあった。前権中納言(ごんちゅうなごん)堀河康親(ほりかわやすちか)の次子として文政(ぶんせい)8年9月15日京都に生まれ、岩倉具慶(ともやす)の養嗣子(ようしし)となった。幼名を周丸(かねまる)、号を対岳と称した。1853年(嘉永6)歌道を通じて関白鷹司政通(たかつかさまさみち)に接し、翌年孝明(こうめい)天皇の侍従となる。1858年(安政5)幕府の老中堀田正睦(ほったまさよし)が日米修好通商条約の勅許を奏請したことに対して、同志の公卿とともに、条約一件を朝廷が幕府に委任することに反対して、大原重徳(おおはらしげとみ)らと提携、「神州萬歳堅策」を起草、内奏し、攘夷(じょうい)のための武備充実を主張した。1860年(万延1)桜田門外の変で大老井伊直弼(いいなおすけ)が殺害されたのち、幕府が公武合体策を進め、皇女和宮(かずのみや)の降嫁を実現すると、朝廷側にあって対幕交渉の実力者の立場にあった岩倉は、それに協力する態度をとった。そのためもあって、尊攘派の志士たちは岩倉を佐幕派公卿として排撃し、「四奸」の一人として朝廷にその処罰を奏請した。そうした圧力により、岩倉は辞官、剃髪(ていはつ)して、名を友山と改め、その知行地(ちぎょうち)であった京都・洛北(らくほく)の岩倉村に身を潜めることを余儀なくされた。その間にも、岩倉は尊攘運動の動きに注目し、1866年(慶応2)「叢裡鳴蟲(そうりめいちゅう)」「全国合同策」などの意見書を起草、朝廷を中心に国権の統一を主張した。さらにその翌年には、かねて志を通じていた討幕派諸藩の下士層と策略を進めて、薩長(さっちょう)2藩に討幕の密勅を下賜させることに成功、王政復古の実現に貢献した。
明治新政府の成立とともに、参与、議定(ぎじょう)から副総裁兼海陸軍事務総督、会計事務総督、ついで大納言となり、永世禄(えいせいろく)として5000石を授けられた。さらに版籍奉還、廃藩置県にも奔走し、1871年(明治4)には右大臣に昇任した。また同年、条約改正交渉と米欧視察のため、特命全権大使として使節団を引率して外国を巡回し、1873年に帰国した。その直後、西郷隆盛(さいごうたかもり)らが主張した征韓論に対して、岩倉は大久保利通(おおくぼとしみち)らと組んでそれを退けた。そのため、1874年東京の赤坂喰違(あかさかくいちがい)において征韓派の不平士族たちに襲われた。
その後、自由民権運動の高揚に対して、岩倉は天皇を中心に明治国家の基礎を固める方針を採用し、それを推進するために、順次、措置を講じた。まず1878年宮内省内規取調局総裁に就任し、1881年には井上毅(いのうえこわし)に命じて「大綱領」を起草させた。そこには後の帝国憲法の枠組みが示されていた。また岩倉は皇室財産の拡充、日本鉄道会社の設立にも関与するなど、三条実美や大久保利通らと協力、最高の実権者の一人、絶対主義政府の専制支配者として行動した。明治16年7月20日、59歳で没。国葬。没後贈正一位、太政大臣(だじょうだいじん)。
[石塚裕道]
『宮内省編『岩倉公実記』全3巻(1906・岩倉公旧蹟保存会)』▽『大久保利謙著『岩倉具視』(中公新書)』
明治維新期における公卿出身の政治家。権中納言堀河康親の次男。養父は岩倉具慶(ともやす)。幼名は周丸(かねまる),号は対岳。1838年(天保9)従五位下から61年(文久1)正四位下へ。この間,侍従,右近衛権少将を経て,62年,左近衛権中将。58年(安政5)には,幕府の要求する日米修好通商条約の勅許に88人の公家の〈列参(集団行動)〉で反対し,また,公武合体をとなえて和宮降嫁を推進,尊攘派からは久我建通,千種有文,富小路敬直らとともに〈四奸〉の一人としてねらわれた。62年,辞官落飾,法名は友山,京都の岩倉村に潜居した。この幽居中にも朝権の確立をめざした〈叢裡鳴虫〉や朝廷中心の国権一元化構想を示した〈全国合同策〉などを草し,また,廷臣や薩摩藩士らと画策して倒幕運動を進めた。66年(慶応2)末の孝明天皇の急死では,毒殺説が流布し,岩倉に疑惑がかけられた。翌年,明治天皇のもとで勅勘が許され,〈王政復古〉クーデタで参与となり,以後,新政府において,議定,副総裁,権大納言,大納言,右大臣など,中枢に位置した。この間,69年(明治2)には正二位に叙せられ,永世禄5000石を下賜されている。71年,特命全権大使として木戸孝允,大久保利通,伊藤博文らとともに米欧に出かけて12ヵ国を回覧,アメリカではグラント大統領に謁し,ドイツではビスマルクやモルトケと会見したりした(岩倉使節団)。帰国後,73年のいわゆる征韓論に対しては,大久保,木戸らと反対し,明治6年10月の政変の結果,大久保政権が実現した。74年,赤坂喰違坂で征韓論支持者に襲われ,76年には従一位となり,また,勲一等に叙せられ,旭日大綬章を授けられている。この年,華族会館長に推任され,以後77年第十五銀行(華族銀行),81年日本鉄道会社をおこして華族のために尽力するとともに,士族授産にも努力した。政体確立をめざした岩倉は,外遊,士族反乱,対朝鮮・台湾問題,〈漸次国家立憲ノ政体〉樹立の詔勅などの過程で,天皇制の制度的確立を念頭におき,自由民権運動とはまっこうから対抗した。78年から82年にかけての彼の相つぐ意見書は,いかに皇室の基礎を固め,その藩屛を強化するかに腐心していることを示している。そして,懐刀としての太政官大書記官井上毅を駆使して明治憲法の基本構想をつくり,明治14年の政変後,政局の主導権を握った伊藤博文をドイツに派遣,明治憲法起草の準備にあたらせたが,83年病死した。国葬,翌年正一位を追贈された。岩倉の病状をみとったドイツ人ベルツは,岩倉を評して〈全身ただこれ鉄の意志〉と述べた。この〈鉄の意志〉は,幕末以来岩倉がつねにクーデタないし政変の推進者または協力者であったことに示されており,それはまた彼が権謀術数の政治家であったことを物語っている。
執筆者:田中 彰
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(井上勲)
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1825.9.15~83.7.20
幕末~明治前期の政治家。下級公卿堀河康親(やすちか)の次男。京都生れ。幼名周丸(かねまる),号は華竜,のち対岳。14歳で岩倉具慶(ともやす)の養子となる。宮中に出仕し,侍従・近習を勤め,1858年(安政5)条約勅許問題で中山忠能(ただやす)らとともに幕府に反対。ついで公武合体を意図し和宮(かずのみや)降嫁を画策。そのため尊攘派から奸物視されて朝廷から退けられ,岩倉村に潜居。大久保利通(としみち)など薩長の倒幕派と接触を深め,67年(慶応3)王政復古の実現に暗躍した。新政府成立により参与・議定・外務卿などを歴任。71年(明治4)廃藩置県後に右大臣。71~73年特命全権大使として欧米を視察し,帰国直後,内治優先論の立場から西郷隆盛の朝鮮遣使(いわゆる征韓論)を阻止した。74年不平士族に襲撃され負傷。81年プロイセン流憲法の制定を説く意見書(井上毅(こわし)執筆)を提出し,大隈重信のイギリス流政党政治の実現を説く「国会開設奏議」に対抗,明治14年の政変に深く関与した。
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…1871‐73年(明治4‐6),特命全権大使岩倉具視を中心とした米欧回覧の使節団。その目的は,(1)幕末に条約を結んだ国への新政府による国書の奉呈,(2)上記条約改正への予備交渉,(3)米欧各国の近代的制度・文物の調査・研究であったが,(2)の問題では成功せず,もっぱら(1)と(3)を主として遂行した。…
…すなわち81年10月国会開設の詔を機に民権運動が高揚すると,憲法実施前に皇室財産を設定せよとの建議があいついだ。その中でも有名なのは,81年9月と82年2月に提出された右大臣岩倉具視の意見書である。岩倉は国会開設後,政府と政党との対立が激化することを予想し,陸海軍の経費や予算案が成立しない場合には皇室財産によって支弁できるだけの準備をととのえておく必要を説いた。…
…その後,政府は条約改正の予備交渉とその前提となる近代的法治国家への改編準備のため岩倉使節団を米欧回覧に派遣した。岩倉具視らは途中アメリカで交渉に入ったが,領事裁判権撤廃,関税自主権承認などの日本側の希望は受け入れられず,かえって外国人への内地開放,日本の輸出税廃止,地方行政規則や貿易港則の制定についての事前協議を要求されたため,以後,交渉をやめた。岩倉らはこの経験から,条約改正による完全独立には内政改革の先行が条件であると確信して帰国し,征韓派と対立して明治6年の政変(1873)を惹起した。…
…江戸時代にも公家・武家等に例外的な刑罰として行われた。岩倉具視は1862年(文久2)和宮降嫁を推進したことから尊攘派の糾弾するところとなり,辞官蟄居を命ぜられた。1792年(寛政4)《海国兵談》を著した林子平は兄嘉膳方に引き渡し在所において蟄居を命ぜられた。…
…略称,日鉄。華士族の財産(金禄公債など)を鉄道に投資することにより,彼らの物質的地位の安定,ならびに沿線の産業開発をはかることを目的に,岩倉具視らが中心となって,1881年に設立された。当初は全国的な規模での鉄道建設を計画したが,実際に建設したのは現在のJRの高崎線(1884年に上野~高崎間が全通),東北本線(1891年に上野~青森間が全通),常磐線の大部分(1898年に上野~岩沼間が全通)などであった。…
※「岩倉具視」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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