樋口 勘次郎
ヒグチ カンジロウ
明治期の教育学者,教授法研究者
- 生年
- 明治4年11月27日(1872年)
- 没年
- 大正6(1917)年12月13日
- 出身地
- 長野県諏訪郡富士見村
- 学歴〔年〕
- 東京師範(東京教育大学の前身)〔明治28年〕卒
- 経歴
- 明治28年東京師範附属小学校訓導となる。ヘルバルト理論の画一化を批判、児童の自発活動を尊重し、フランシス・パーカーの学説をとり入れ“活動主義”による諸教科の統合教育を唱えた。32年「統合主義新教授法」を著わし、谷本富の自学主義などと並んで大正自由教育運動の先駆といわれる。33年仏・独に留学し、デュルケームの社会学的教育科学にも接する。またエスペラントを学習。36年帰国し、翌37年「国家社会主義新教育学」を刊行し、教育界に初めて社会主義を紹介したが、日露戦争には国家主義的立場をとった。児童文学の面では平がな表記の「修身童話」(6巻)を著し、日本昔話とグリム童話を教材化し、その教育的価値を主張。また国語教科書に文学教材を取り入れる最初の運動を起こした。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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樋口勘次郎
没年:大正6.12.13(1917)
生年:明治4.11.27(1872.1.7)
明治期の教育者。長野県生まれ。長野師範卒業後,小学校の訓導を経て,明治25(1892)年東京高等師範学校に入学。卒業と同時に同校附属小学校の訓導となる。32年に『統合主義新教授法』を著し,子どもの自発活動を尊重する「活動主義」を提唱。のちの大正自由教育運動の先駆的役割を果たす。33年から約3年間欧州に留学。帰国後『国家社会主義新教育学』を著し(1904),教育を国家発展のための事業と位置づける。その主張の変容は当時の教育体制下での「活動主義」の限界を示すものともなる。帰国後は早稲田大学講師,帝国教育会理事などを歴任。<参考文献>中野光『大正自由教育の研究』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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樋口勘次郎 ひぐち-かんじろう
1872*-1917 明治時代の教育学者。
明治4年11月27日生まれ。32年「統合主義新教授法」をあらわし,子どもの自発的活動を重視する活動主義教育を主張。33年ヨーロッパに留学,帰国後は「国家社会主義新教育学」などを刊行し,国家社会主義的色彩をつよめた。大正6年12月13日死去。47歳。長野県出身。高等師範卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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樋口 勘次郎 (ひぐち かんじろう)
生年月日:1872年11月27日
明治時代の教育学者
1917年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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