日本大百科全書(ニッポニカ) 「エスペラント」の意味・わかりやすい解説
エスペラント
えすぺらんと
Esperanto エスペラント
ヨーロッパのおもな言語の単語や文法を整理してつくられた国際補助語(橋渡し言語)。ポーランド生まれのユダヤ人L・L・ザメンホフが考案し、1887年に発表した。2017年時点の世界エスペラント協会Universala Esperanto-Asocio(UEA)会員は119か国、1万3071人。学習者人口はこの20倍前後とみられる。オンライン百科事典「ウィキペディア」のエスペラント版の記事数は2018年時点で24万件を超え、これは全言語版中32位である。
[泉 幸男 2018年9月19日]
略史
19世紀後半からヨーロッパでは交通の発達などで一般庶民の行動範囲が広がり、単なる宮廷外交の共通語(フランス語)や地域的な共通語(民族語)を超えた国際語の必要が実感されだした。ザメンホフの生まれ育った東ポーランドのビャウィストクは当時ロシア帝国領で、ユダヤ人やドイツ人移民も多い多言語地域であった。どの民族の言語でもない習いやすい共通語があればと、青年ザメンホフは試行錯誤を重ね、1887年にワルシャワで『国際語』を刊行する。これは、ロシア語書きのエスペラント教本で、このときのザメンホフの筆名「エスペラント博士」D-ro Esperanto(希望者博士)が、言語そのものの名ともなった。
エスペラントの理想主義は共鳴者を得た。1921年には、当時国際連盟事務次長であった新渡戸稲造(にとべいなぞう)が国際連盟総会に報告書を提出し、「外交のための言語は経済上の理由から英語とフランス語の2言語に限定されているが、世界的視野からみて、エスペラントのような共通語の採用こそ経済的で理にかなっている」と論じた。同年には、世界各国におけるエスペラント教育を国際連盟が奨励すべきとの提案を日本・中華民国など12か国が提出したが、実現しなかった。ドイツのナチス政権やソ連のスターリン政権下でエスペランチスト(エスペラント使用者)は危険思想の持ち主とみなされ弾圧を受けたが、第二次世界大戦後に活動を再開した。1954年にはユネスコ(国連教育科学文化機関)がエスペラントの国際文化交流への貢献を認め、世界エスペラント協会をユネスコの諮問団体と認定した。
[泉 幸男 2018年9月19日]
特徴
つづりはローマ字、1字1音素。アクセントは最後から2番目の音節と決まっている。書いてある通りに読めばよく、聞いた感じはイタリア語に似ている。単語の最後の文字を見れば、名詞か形容詞か動詞かがすぐにわかる。名詞の複数形や動詞の現在、過去、未来、命令、仮定形などは、語尾を規則的に変化させてつくられる。名詞の性の区別や動詞の人称変化はない。語順はかなり自由であるが、基本は主語―動詞―目的語―補語。前置詞、関係代名詞を使う。
語彙(ごい)は、7割がラテン系(フランス語、イタリア語、ラテン語などからとったもの)で、そのほかはドイツ語や英語などからのものが占める。たとえば「よい」は“bona”であるが、これはラテン語“bonus”やフランス語“bon”から語根“bon”を採用し、これに形容詞語尾の“-a”をつけたものである。語尾を名詞語尾の“-o”に変えて“bono”とすると「善」という意味の名詞になる。このように語根(形態素)の形が一定に保たれることから、言語学上エスペラントは膠着(こうちゃく)語に分類される。接頭・接尾辞が40以上もあり、一つの語根から多数の単語が生まれる。2002年刊の『エスペラント絵入り大辞典』La Nova Plena Ilustrita Vortaro de Esperantoは、1万6780の語根を収録している。そのほか各種専門用語集もある。
[泉 幸男 2018年9月19日]
国際運動
世界エスペラント協会は、オランダのロッテルダムに本部がある。同協会が組織する世界大会は毎年1500~4000人が集い、すべての会議はもとより演劇・余興からキリスト教のミサに至るまでエスペラントで行われる。「都市代表ネットワークDelegita Reto」という国際情報サービス網(2017年時点で、102か国、1669人登録)も設けられ、また「パスポート・サービスPasporta Servo」という国際民宿制度もある。エスペラントが盛んな地域は、ヨーロッパ諸国と中国、日本、アメリカ、ブラジルなどである。人口比からいえば、フィンランド、オランダ、スウェーデン、デンマークのような国が目だつ。弱小言語を国語とするため言語問題に関心が高く、エスペラント運動の理念が理解されやすいからである。
[泉 幸男 2018年9月19日]
文化
書籍、雑誌の出版が活動の中心である。各国の文学作品のエスペラントへの翻訳やエスペラント原作の詩・小説もある。エスペラント詩は、ハンガリー人のカールマン・カロチャイKálmán Kalocsay(1891―1976)が大成した。スコットランド人のウィリアム・オールドWilliam Auld(1924―2006)のエスペラント原作の叙事詩『幼年の民』La Infana Rasoは傑作とされ、オランダ語など7言語に訳されている。おもな雑誌に、政治・文化のニュースを報道する月刊『Monato(モナート)』(Monatoは「1か月」の意)がある。
[泉 幸男 2018年9月19日]
日本
世界エスペラント協会の加盟団体として日本エスペラント協会がある。同協会は1919年(大正8)に日本エスペラント学会として設立され、2012年(平成24)に現名称となった。会員は2017年時点で1115人。月刊機関誌『エスペラント』を発行している。同協会のエスペラント書籍・雑誌の蔵書は世界有数である。このほか全国主要都市に学習サークルがある。1965年(昭和40)に第50回世界エスペラント大会(1710人参加)を東京で開催した当時が、社会的ブームのピークであった。その後、海外のエスペラント関連行事への参加者が飛躍的に増えた。2007年には第92回世界エスペラント大会(1901人参加)が横浜で開かれた。カナモジ運動やローマ字運動と異なりエスペラント運動がそれなりに続いているのは、国際交流という目にみえる利便性のためであろう。
[泉 幸男 2018年9月19日]
『三宅史平著『エスペラントの話』(1976・大学書林)』▽『L・L・ザメンホフ著、水野義明編訳『国際共通語の思想――エスペラントの創始者ザメンホフ論説集』(1997・新泉社)』▽『日本エスペラント学会エスペラント日本語辞典編集委員会編『エスペラント日本語辞典』(2006・日本エスペラント学会)』▽『安達信明著『ニューエクスプレス エスペラント語』(2008・白水社)』▽『田中克彦著『エスペラント――異端の言語』(岩波新書)』