日本歴史地名大系 「横山城御館跡」の解説
横山城御館跡
よこやまじようおたてあと
横山城の正面真下にあり、領主の平常の居館として、当初は城郭の一部をなすものであった。建設にあたり、慶長七年(一六〇二)三月二日付の吉川広家の書状(藩中諸家古文書纂所収)に「土居廻石垣堀さらへ早々申付」とあるように、初めは土居(一般には御土居)とよんだ。また北側の一区画を上の土居と称した。山上の城郭に先立ち上の土居は同六年冬、土居は翌七年の春起工、そして同年冬、まだ完成をみないうちに吉川広家が入城した。
土居の名称はその後、元禄一一年(一六九八)一二月に、
と、御館と改称(御用所日記)、さらに慶応四年(一八六八)六月、当主吉川経幹が明治政府から城主格として認められたので、七月「今般御城主格被仰出候付ては、自今、御館を御城と相唱候事」(御触出控)と告示し、御城と改称した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報