岩国城下(読み)いわくにじようか

日本歴史地名大系 「岩国城下」の解説

岩国城下
いわくにじようか

周防国の東端。東は瀬戸内海に臨み、三方を山に囲まれ、中央をにしき川が貫流する。

古代は北方の山陽道沿いに石国いわくに駅が置かれ(延喜式)、平安末期には岩国を氏とする有力武士が現れるが、その根拠地は不明である。南北朝時代になり、大内弘幸横山よこやまの地に永興ようこう寺を開き、大内氏の部将弘中兼胤が白崎しらさき山に八幡宮を建立しているが、これらは地理的に岩国が周防国の入口にあたるという軍事的な意義を考慮したうえでの大内氏の施策で、大永四年(一五二四)大内義興の安芸出兵に際しては、永興寺を本陣とするなどの利用がみられる。弘中氏は岩国沿海部を知行していたらしく、錦見にしみ亀尾かめがお城を築いていた(陰徳太平記)。同じ錦見関所せきしよ山にも一時的ではあるが、錦川に臨んで毛利氏の臣桂兵部少輔の居城があった(玖珂郡志)。この城は錦川の水運・経済を重視して設けられたものと思われる。

慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦直後、徳川家康は周防・長門二国を、毛利輝元・秀就に与えたが、その上方口の押えとして吉川広家を岩国に封じた。広家は安芸国山県やまがた日の山ひのやま(現広島県山県郡大朝町新庄)城主吉川元春の三男。天正一九年(一五九一)出雲三郡、伯耆三郡、安芸一郡、隠岐一国を豊臣秀吉から与えられ、出雲国富田月山とだがつさん(現島根県能義郡広瀬町)を居城としたが、関ヶ原敗戦の結果、毛利氏よりの分封として岩国三万石に減少。しかし毛利氏より周防玖珂くが郡のうち二五ヵ村、同大島郡のうち二ヵ村、計三万石を分知されてのち六万石となるが、以後廃藩まで岩国に居城した。

〔城下の建設〕

錦川の流れを自然の要害とし、西岸横山の山上、城山しろやま北嶺に城、その南麓に開けた平地に居館として御土居おどい(のちの御館おたてを築き、川筋堤防で囲い、その内を武家屋敷地とする計画のもとに、慶長六年より建設が始められた(岩邑年代記)。川向うの錦見は、錦川が二、三に分流し、州として固定していたらしいが、川筋を西方に迂回させ、弓なりに堤防を築いた。

工事はまず山下の上の土居かみのどいから着手されたらしく、公勤のため京都にいた広家から普請奉行に宛てた慶長七年正月二八日付の書状(藩中諸家古文書纂所収)に「書状披見候、上之土居石垣表向相調候由、可然候、里々隙明次第、城普請申付候」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の岩国城下の言及

【岩国[市]】より

…西郊の御庄(みしよう)地区には75年新幹線新岩国駅ができ,南郊の藤生(ふじう)・通津(つづ)地区の丘陵地は新しい住宅団地を形成。【三浦 肇】
[岩国城下]
 《延喜式》に周防国の駅家として石国駅が見え,古代から山陽道の要地であった。石国庄は1237年(嘉禎3)の〈周防国石国御庄沙汰人等重申状〉(野坂家文書)に見え,1302年(乾元1)には後堀河天皇の皇女室町院暉子の御料地であった。…

※「岩国城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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