日本歴史地名大系 「横市村」の解説 横市村よこいちむら 宮崎県:都城市横市村[現在地名]都城市横市町・南横市町(みなみよこいちちよう)・蓑原町(みのばるちよう)・都原町(みやこばるちよう)・平塚町(ひらつかちよう)・久保原町(くぼばるちよう)・志比田町(しびたちよう)五十町(ごじつちよう)村の北、宮丸(みやまる)村の西にあり、北方を大淀川支流横市川が東へ流れる。北方安永(やすなが)村に通じる道が西側を、東霧島(つまぎりしま)(現高崎町)に通じる道が東端を通る。北東部の大根田(おおねだ)(大野田)にあった天下(雨下)天神の天文元年(一五三二)一一月二四日の棟札には「下財部内雨下天神」の社殿一宇が北郷忠相を大旦那として再興されたことがみえ、また同社蔵天正四年(一五七六)一一月二五日の棟札にも大隅国下財部郷之内雨下天神とみえる(庄内地理志)。あるいは当地は一時下財部(しもたからべ)郷に属していたとも考えられる。天文一二年五月九日、志和池(しわち)城の北原氏攻略にあたって、北郷氏は大根田口に高城衆・山口衆を配置している(「北郷忠相等三代日帳写」都城島津家文書)。庄内合戦時の慶長四年(一五九九)九月一〇日、伊集院忠真の拠る都城攻撃のため出陣した北郷三久らの軍勢は、その途上、大根田に兵を置いて宮丸・安永方面などを攻撃した(「北郷忠能譜」旧記雑録)。南方の蓑原は室町期の合戦場であった。応安六年(一三七三)肥後相良氏は伊東氏・北原氏と結んで庄内(しようない)に侵攻、北郷氏・樺山氏の拠る都城を包囲した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by