日本歴史地名大系 「横手城跡」の解説 横手城跡よこてじようあと 秋田県:横手市横手城下横手城跡[現在地名]横手市城山町横手城下の東端、ほぼ中央の朝倉(あさくら)山の上にあり、背後(東側)は急崖の谷を隔てて奥羽山脈に連なり、前面を北流する横手川が、城の西方でほぼ直角に流路を変えてまもなく蛇の崎(じやのさき)の淵があり、竜(りゆう)ヶ崎(さき)城ともいう(雪の出羽路)。山の名から朝倉城ともよばれ、また城壁に石垣を用いず土居削崖に韮を土留として植えた平山城なので韮城ともよばれ、朝倉城が転訛して阿桜(あざくら)城ともいわれる(横手郷土史資料)。雄勝(おがち)・平鹿(ひらか)・仙北(せんぼく)三郡の領主小野寺氏が天文―弘治元年(一五三二―五五)頃築城したと伝えられる(「稲庭城主小野寺家系」小野寺氏研究資料、奥羽永慶軍記)。「国典類抄」の「御本城并枝城」に「横手城者小野寺遠江守義道居城ニ而、義宣公御遷封之時、右城御人数被差出御請取」とあり、佐竹氏が秋田に入った翌慶長八年(一六〇三)、城の真西約一キロの天仙(てんせん)寺(現二葉(ふたば)町)下流で東に向きを転じて江戸期の下内(しもうち)町深くまで入りこみ、さらに北に向きを変え、まもなく明永(みようえい)(現明永町)で再び西に転じて大鳥居(おどり)山(現大鳥(おおとり)町)の南に向かっていた横手川を掘り替えて、天仙寺下流から大鳥居山の南西部まで、まっすぐに北流させ、右岸に広い武家屋敷地を作り、天然の外堀の役を果すようにした(「横手古図」石川教敏氏蔵)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by