デジタル大辞泉
「横手市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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横手市
よこてし
面積:一一〇・六六平方キロ
市域東部を占める奥羽山脈の支脈真昼山地と、西の出羽山地に挟まれた南北に長い横手盆地の中心都市で、横手川(旭川)が、市域のほぼ中央部を西北流する。中心市街地は、この川によって、右岸の内町(武家町)と左岸の外町(町人町)に分けられ、市域の北部で仙北郡との郡界をなす。市の西端は、北流する大戸川が平鹿郡大雄村との境界をなし、南は平鹿郡平鹿町、北は西流する厨川と中ノ目川が仙北郡仙南村と境する。市域の中央部を国道一三号(旧羽州街道)が南北に縦断し、市街地の南端で東に分れて岩手県和賀郡(旧南部領)へ通ずる国道一〇七号(平和街道、旧小松川街道)、市街地から西へ向かう大森街道、横手川にほぼ平行して現大曲市角間川町に通ずる角間川街道、出羽丘陵を越えて日本海岸の本荘市に通ずる本荘街道などの脇街道が集中する。
横手の名は、文和二年(一三五三)六月一七日付の陸羽国遠田郡篦峯寺十一面観音像血書胎内経(現宮城県遠田郡湧谷町篦岳篦峯寺蔵)の「山北平賀横手」(後欠)が初見である。
〔原始〕
先土器文化遺跡と考えられるものに、市街地南部の大乗院塚遺跡と北部の睦成字鶴谷地の横手高校裏山遺跡がある。後者からは彫刻器・黒曜石などを出土。縄文遺跡は、前期から晩期にかけて二三ヵ所に上り、オホン清水遺跡からは土偶が、三井寺遺跡からは石剣が出土した。中杉沢遺跡は竪穴住居跡二六および中期の土器・組石遺構・土偶などを含む多量の遺物・遺構が発見されている。
農耕文化を伴う続縄文遺跡は北日本の日本海側には少ないが、手取清水遺跡は数少ない遺跡の一つとされる。土師器・須恵器を出土する遺跡は二六ヵ所を数え、このうち郷士館遺跡では登窯一基が、物見遺跡では平窯跡が発見されている。これら多数の遺跡は市の全域にわたり、沢の出口に近い山麓や、丘陵周縁部、泉湧出地周辺に位置している。
保土森古墳からは人骨片入りの須恵器長頸壺を出土し、平安時代のものとされ、県有形文化財(金沢山八幡神社蔵)。西沼の西端は現仙北郡仙南村との境界をなし、金沢柵の北麓を西流する厨川と、その北に五〇〇メートル隔てて西流する中ノ目川に挟まれたいわゆる鳥居長根経塚群があり、刀・鉄斧・鉄製経筒・経文・仏像などが出土した。また金沢柵の東方、厨川に臨む台地上(金沢字寺の沢)の閑居長根経塚群からは古鏡蓋付陶製経壺が出土、「ミナモト□□」という祈願者の姓がみえ、平安末から鎌倉前期のものと推定される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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横手〔市〕
よこて
秋田県南東部,横手盆地にある市。雄物川およびその支流域に位置し,東で岩手県に接する。 1951年市制。 1955年境町村,黒川村の2村,1956年金沢町をそれぞれ編入。 2005年増田町,平鹿町,雄物川町,大森町,十文字町,山内村,大雄村の7町村と合体。中心市街は雄物川の支流旭川の谷口集落として発達し,江戸時代は佐竹氏の一族戸村氏の城下町として発展。慶応4 (1868) 年の戊辰戦争で横手城は焼失した。古くから市が開かれ,現在でも朝市が立つ。近郊農村部は水田単作地帯。リンゴ,ブドウも生産するほか,酒造業も盛ん。都市部では 300年の伝統をもつ横手木綿をはじめ地下足袋製造や製材業が行なわれるほか,横手インターチェンジ近くに新しく工業団地も建設された。金沢柵跡などの旧跡が多く,毎年2月 15日のかまくら,2月 17日の旭岡山神社に奉納する梵天の行事は有名。保呂羽山 (ほろわさん) にある波宇志別神社 (はうしわけじんじゃ) の霜月神楽は国の重要無形民俗文化財,神楽殿は国の重要文化財に指定されている。 JR奥羽本線が通り,北上線が分岐。国道 13号線と 107号線が交差,秋田自動車道の横手インターチェンジがあるなど,交通の要地となっている。面積 692.80km2。人口 8万5555(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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