日本歴史地名大系 「橋田村」の解説 橋田村はしだむら 熊本県:菊池郡七城町橋田村[現在地名]七城町橋田高島(たかじま)村の西にあり、菊池川・迫間(はざま)川の合流点からやや上流の菊池川左岸に下橋田(しもはしだ)の集落、その上流に上橋田の集落があり、ともに周囲は水田地帯となっている。西は合志(こうし)川を隔てて山本(やまもと)郡正院手永の葦原(あしわら)村(現鹿本郡植木町)に接する。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳に田三五町八反三畝余・畠三町四反余、分米四七〇石余、屋敷持一五人・屋敷数二二とある。同一三年の検地帳では田三七町余・畠四町余、分米五〇四石七斗余、屋敷持一九人・屋敷数二〇、家数五八・人数五八、牛馬一七とあり、とうノくぼ・九ノ坪などの下ケ名がみえる。寛永一〇年(一六三三)の人畜改帳によれば板井組に属した。 橋田村はしだむら 新潟県:五泉市橋田村[現在地名]五泉市橋田新津丘陵の東側に細長く続く村で、南は尻上(しりあがり)村、北は丸田(まるた)村に接する。現在は中山(なかやま)神社に合祀された天神社の跡地に鶉橋(うずらはし)という字名があり、古くは鶉橋庄に属したと思われる。鎌倉末期には菅名(すがな)庄に組込まれ、中山神社所蔵の正和二年(一三一三)一一月銘の銅鏡に「越後国菅名庄橋田」とある。慶長三年(一五九八)新発田藩領となり、同一一年には橋田村小ノ沢与助宛に藩主溝口秀勝の開発免状(新関村郷土史)が出され、当村の荒地の開発を許している。同一六年に沢海藩領となり、寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳に高一千二六六石六斗余とある。貞享四年(一六八七)幕府領となり、寛政六年(一七九四)水原(すいばら)代官所の検地があったが村高に変化はない(「水原代官所村々高書上帳」小田島余吉氏蔵)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by