殿敷村
とのしきむら
[現在地名]豊田町大字殿敷
木屋川がつくる豊田平野の北から北東の山地一帯を占める大村で、北は大河内村に接し、西北は楢原村、西は普済寺川(現山田川)を境に西市町に接する。萩藩領の飛地で前大津宰判所属。
村内の平野部には条里制の遺構が残る。東八幡宮の旧地(現八幡山)の南、参道沿いに数区画あり、南隣の中村分に続いて、再び殿敷村分の東市の辺りに名残がみられる。地名としてもクボ(坪)・中ノ坪・壱町田・大クボ(坪)などが残る。
平安中期以降、豊浦郡の北東部に勢力を張った豊田氏の一族が、中世後期に構えた屋敷「殿屋敷」が転じて殿敷になったと伝える(地下上申)。「注進案」は「牛見荘本郷殿敷村」と記すが、慶長五年(一六〇〇)、同一五年、寛永三年(一六二六)などの検地帳では、のちの殿敷・矢田両村や西市町など付近一帯を合わせた地を「本郷」として高付している。慶長一五年の検地帳によると総石高四千三二五石余、うち田方が三一〇町余で三千九〇四石余、畠方が四三町余で一九四石余、百姓屋敷三七六、市屋敷四六、小物成一一石余とある。
「地下上申」で萩藩領殿敷村と初めて一村として記され、総石高一千六七四石余、うち田方一千三六六石余、畠方三〇八石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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