氏家村(読み)うじいえむら

日本歴史地名大系 「氏家村」の解説

氏家村
うじいえむら

[現在地名]氏家町氏家

鬼怒川左岸に位置し、東南部を五行ごぎよう川が南流する。奥州街道開通後は宇都宮より二番目の宿駅を形成、原街道・会津中街道・会津西街道が分岐する交通の要地であった。「和名抄芳賀はが氏家郷の遺称地。郷名は中世に続き、年未詳二月二六日の某書状写(小田部庄右衛門氏所蔵文書)には「氏家下郷」もみえる。氏家郷では鎌倉期には宇都宮一族の氏家氏が勢力を張り、今宮いまみや神社を氏神とした。室町期になると芳賀氏が代わって勢力を有した。享禄四年(一五三一)に宇都宮氏・小田氏と那須氏の両軍が当地で二日間にわたり合戦、焦土と化したという(「今宮祭祀録」西導寺蔵)。また天正四年(一五七六)二月にも宇都宮氏と那須氏との合戦が「氏家原」で行われている。

氏家村
うずえむら

[現在地名]鯖江市上氏家かみうずえ町・下氏家しもうずえ

当田とうで村の西に位置し、西は野田のだ村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では丹生北郡中に「氏家村上下」とあり、高一二〇一・一三石。正保郷帳によれば、上氏家村は田方四九一石余・畠方一九石余。下氏家村は田方六三一石余・畠方五九石余。枝村に殿でんが村・国沢くにさわがある(越前国名蹟考)。初め福井藩領、貞享三年(一六八六)幕府領元禄一〇年(一六九七)高森藩領。上氏家村はのち幕府領、下氏家村はのち三河国西尾藩領。寛政八年(一七九六)の上氏家村宗門人別御改下帳(「越前宗門帳」所収)によれば、同村は家数五一、人数二三〇(うち男一一一・女一一五・僧四)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報