朝日日本歴史人物事典 「水野忠重」の解説
水野忠重
生年:天文10(1541)
戦国・安土桃山時代の武将。通称藤十郎,惣兵衛。名は忠勝とも。尾張緒川城主水野忠政の9男で,信元の異父弟に当たる。母は大河内元綱の養女於富という。はじめ兄信元と共に織田信長に仕えたが,永禄4(1561)年から徳川家康に仕え,三河一向一揆との戦,掛川城の戦,姉川の戦,三方ケ原の戦などに戦功をあげている。天正8(1580)年,信長から信元の旧領を与えられ,三河刈屋城主となり,再び信長に仕えることになった。同10年の本能寺の変のときは在京していたが難を逃れ,そのあと織田信雄に仕え,刈屋領7000貫文,緒川領6000貫文を領した。小牧・長久手の戦ののち,豊臣秀吉に仕え,同15年,従五位下・和泉守に叙任された。同18年の小田原攻め後,伊勢神戸4万石に移封され,のち旧領刈屋に復帰した。堀尾吉晴を三河国池鯉鮒で饗応中,同行の美濃加賀井城主加賀井重望(秀望)に刺殺された。なお,このとき重望は堀尾吉晴に討ち取られている。
(小和田哲男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報