安土(あづち)桃山時代の禅僧、政治家。号は瑤甫(ようほ)。安芸(あき)安国寺、備後(びんご)安国寺、京都東福寺住持。安芸国(広島県)銀山(かなやま)城主武田信重(たけだのぶしげ)の子という。永禄(えいろく)(1558~1570)末年から毛利(もうり)氏の外交僧。1573年(天正1)将軍足利義昭(あしかがよしあき)と織田信長の不和調停のため上京し、信長方の木下(豊臣(とよとみ))秀吉と交渉を重ねたが、このとき早くも10年後の信長の運命と、秀吉の将来性を予言した。1582年、秀吉の備中(びっちゅう)高松城攻めに際し、毛利方として秀吉と折衝、講和を成立させた。この後は毛利方としてよりは秀吉の家臣としての働きが多く、秀吉の四国征伐後は伊予国(愛媛県)和気(わけ)郡で2万3000石をあてがわれて、豊臣大名の一員となった。九州征伐、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役には目付(めつけ)または奉行(ぶぎょう)として功があり、慶長初年には伊予で6万石を領した。関ヶ原の戦いには主脳として西軍に加わったが、ともに南宮山(なんぐうさん)に陣した毛利勢が、同族の吉川広家(きっかわひろいえ)に遮られて、戦わないまま敗走したので、恵瓊も戦場を逃れた。のち京都に潜伏中を捕らえられ、慶長5年10月1日、石田三成(みつなり)、小西行長(ゆきなが)とともに六条河原で斬(き)られた。
[岡本良一]
『河合正治著『安国寺恵瓊』(1989・吉川弘文館)』▽『三宅孝太郎著『安国寺恵瓊――毛利の参謀といわれた智憎』(PHP文庫)』
(原田正俊)
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安土桃山時代の僧,政治家。瑶甫恵瓊。安芸守護武田氏の出身。安芸安国寺で出家し,のち東福寺の竺雲恵心に師事,1569年(文禄12)安国寺住持,79年(天正7)東福寺退耕庵主となった。これよりまえ恵瓊は毛利氏のため北九州に従軍し,69年立花城攻囲のため活躍したのをはじめ,諸戦国大名と毛利氏との間を斡旋した。73年上洛して将軍足利義昭の帰洛のことを織田氏に周旋したとき,信長と木下(豊臣)秀吉の将来を予言したことは有名である。そして本能寺の変を契機に豊臣・毛利2氏の講和・協力に奔走し,85年伊予和気郡のうち6万石を領知して確固とした地位を築く一方,備後安国寺再建,厳島大願寺建立,東福寺竜眠菴再建,安芸新安国寺建立,東福寺庫裏再建などを果たし,98年(慶長3)東福寺住持,1600年南禅寺住持の公帖をえたが,秀吉没後の豊臣政権を過信して毛利氏を石田三成の党としたため,徳川氏に通じる吉川(きつかわ)広家らに忌憚された。関ヶ原の戦後京都で処刑。
執筆者:岩沢 愿彦
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?~1600.10.1
戦国末期の禅僧。諱は恵瓊,字は瑶甫(ようほ)。一任斎・正慶と称する。安芸国の銀山城主武田信重の遺児という。1541年(天文10)銀山城が落城し武田氏が滅亡した際,同国安国寺に入る。53年に竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子,1600年(慶長5)に京都南禅寺の住持となる。毛利氏の使僧として活躍。のちに豊臣秀吉の直臣のような存在となる。関ケ原の戦では毛利輝元に味方し,京都で梟首(きょうしゅ)となる。
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…南北朝期に入って五山第3位に列位され,五山文学活動の中心的存在となった。幾度か火災にあったが,1552年(天文21)諸堂宇を全焼し荒廃していたものを,安国寺恵瓊(えけい)が再建に努力し,安芸安国寺の方丈,東福寺の茶堂などを移建して旧観に復した。盛時には塔頭(たつちゆう)64院を数えたが,現在は減少して14院となり,ほかに末寺70ヵ寺を擁している。…
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