安国寺恵瓊(読み)アンコクジエケイ

デジタル大辞泉 「安国寺恵瓊」の意味・読み・例文・類語

あんこくじ‐えけい〔‐ヱケイ〕【安国寺恵瓊】

[?~1600]安土桃山時代臨済宗の僧。安芸あきの人。豊臣秀吉の信任を得て寺領を与えられ、東福寺安国寺を復興。関ヶ原の戦いには石田三成側につき、捕らえられて斬られた。恵瓊。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「安国寺恵瓊」の意味・読み・例文・類語

あんこくじ‐えけい‥ヱケイ【安国寺恵瓊】

  1. えけい(恵瓊)

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「安国寺恵瓊」の意味・わかりやすい解説

安国寺恵瓊
あんこくじえけい
(?―1600)

安土(あづち)桃山時代禅僧、政治家。号は瑤甫(ようほ)。安芸(あき)安国寺、備後(びんご)安国寺、京都東福寺住持。安芸国(広島県)銀山(かなやま)城主武田信重(たけだのぶしげ)の子という。永禄(えいろく)(1558~1570)末年から毛利(もうり)氏の外交僧。1573年(天正1)将軍足利義昭(あしかがよしあき)と織田信長の不和調停のため上京し、信長方の木下(豊臣(とよとみ))秀吉と交渉を重ねたが、このとき早くも10年後の信長の運命と、秀吉の将来性を予言した。1582年、秀吉の備中(びっちゅう)高松城攻めに際し、毛利方として秀吉と折衝、講和を成立させた。この後は毛利方としてよりは秀吉の家臣としての働きが多く、秀吉の四国征伐後は伊予国(愛媛県)和気(わけ)郡で2万3000石をあてがわれて、豊臣大名の一員となった。九州征伐、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役には目付(めつけ)または奉行(ぶぎょう)として功があり、慶長初年には伊予で6万石を領した。関ヶ原の戦いには主脳として西軍に加わったが、ともに南宮山(なんぐうさん)に陣した毛利勢が、同族の吉川広家(きっかわひろいえ)に遮られて、戦わないまま敗走したので、恵瓊も戦場を逃れた。のち京都に潜伏中を捕らえられ、慶長5年10月1日、石田三成(みつなり)、小西行長(ゆきなが)とともに六条河原で斬(き)られた。

岡本良一

『河合正治著『安国寺恵瓊』(1989・吉川弘文館)』『三宅孝太郎著『安国寺恵瓊――毛利の参謀といわれた智憎』(PHP文庫)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「安国寺恵瓊」の解説

安国寺恵瓊

没年:慶長5.10.1(1600.11.6)
生年:生年不詳
安土桃山時代の臨済宗の僧,戦国大名。瑶甫と号す。安芸国(広島県)守護武田氏の出身。安芸国安国寺(当時臨済宗東福寺末寺,現在の真言宗不動院)に入り,竺雲恵心の弟子となる。毛利氏の信任を得,安芸国安国寺,備後国(広島県)鞆の安国寺の住持を兼ね,使僧として京都と毛利氏の調停に当たる。天正1(1573)年には足利義昭と織田信長の争いのなか,義昭のため奔走し,この間,天下の情勢を見抜き,信長の天下の短いことと豊臣秀吉の有望さを予言したことは有名である。義昭を奉じて毛利氏の勢力拡大を図るが,秀吉の備中(岡山県)高松城攻めの際には毛利と秀吉の講和を進め,これにより,秀吉はいち早く京都へ戻り,天下を制することができた。このころから秀吉の信厚く,その使僧として働き四国平定により,伊予国(愛媛県)に2万3000石の所領を与えられ,のちに6万石を有する大名となった。文禄・慶長の役では秀吉の命で朝鮮に赴き,戦闘にも加わった。やがて,毛利家内部の吉川広家と対立するようになり,関ケ原の戦では,豊臣方に毛利氏を引き入れようとするも,広家らの裏切りを受け,西軍の敗北となり,捕らえられ,石田三成,小西行長と共に大坂,堺を引き回され京都六条河原で斬られる。享年63,4歳といわれる。一方,東福寺住持ともなり,建仁寺方丈をはじめ多くの寺社の復興に努めた。まさに動乱のなかを生きた政僧の代表といえよう。<参考文献>河合正治『安国寺恵瓊』

(原田正俊)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「安国寺恵瓊」の意味・わかりやすい解説

安国寺恵瓊 (あんこくじえけい)
生没年:1538?-1600(天文7?-慶長5)

安土桃山時代の僧,政治家。瑶甫恵瓊。安芸守護武田氏の出身。安芸安国寺で出家し,のち東福寺の竺雲恵心に師事,1569年(文禄12)安国寺住持,79年(天正7)東福寺退耕庵主となった。これよりまえ恵瓊は毛利氏のため北九州に従軍し,69年立花城攻囲のため活躍したのをはじめ,諸戦国大名と毛利氏との間を斡旋した。73年上洛して将軍足利義昭の帰洛のことを織田氏に周旋したとき,信長と木下(豊臣)秀吉の将来を予言したことは有名である。そして本能寺の変を契機に豊臣・毛利2氏の講和・協力に奔走し,85年伊予和気郡のうち6万石を領知して確固とした地位を築く一方,備後安国寺再建,厳島大願寺建立,東福寺竜眠菴再建,安芸新安国寺建立,東福寺庫裏再建などを果たし,98年(慶長3)東福寺住持,1600年南禅寺住持の公帖をえたが,秀吉没後の豊臣政権を過信して毛利氏を石田三成の党としたため,徳川氏に通じる吉川(きつかわ)広家らに忌憚された。関ヶ原の戦後京都で処刑。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「安国寺恵瓊」の意味・わかりやすい解説

安国寺恵瓊
あんこくじえけい

[生]? 安芸,沼田
[没]慶長5(1600).10.1. 京都
安土桃山時代の僧。安芸国安佐郡銀山城主武田氏の遺族。字は瑤甫。幼名は竹若。初め安国寺竺雲に師事し,天正7 (1579) 年法兄真渓の命を受けて東福寺退耕庵に住し,さらに南禅寺に移ったが,のち再び安芸安国寺に兼住した。弁才があり,機知に富み,毛利輝元に深く信頼され,国政を議することもあった。天正1 (73) 年の織田信長と将軍足利義昭の戦いには,輝元の命により両者の調停にあたり,また同 10年豊臣秀吉が高松城を攻めたときには,輝元との間に和議を成立させた。そのため秀吉にも信任され,伊予6万石を与えられた。さらに天正年間 (73~92) ,秀吉に請い安国寺を再興。同 19年には寺領として1万 1500石を加増され,東福寺庫裏や博多承天寺を再興。慶長3 (98) 年東福寺第 224世となる。同5年の関ヶ原の戦いには,毛利氏とともに西軍石田三成方にくみした。敗れて鞍馬山月照院などに逃れたが捕えられ,同年 10月石田三成,小西行長らとともに六条河原で斬首。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「安国寺恵瓊」の意味・わかりやすい解説

安国寺恵瓊【あんこくじえけい】

安土桃山時代の安芸(あき)安国寺の僧。字は瑶甫(ようほ)。生来機略弁才に富み,1573年織田信長と足利義昭,1582年羽柴(豊臣)秀吉と毛利輝元の間を調停した。文禄・慶長の役にも出陣して,秀吉より伊予(いよ)で6万石を与えられた。関ヶ原の戦では西軍に属し,捕らえられ京都で斬首。
→関連項目安国寺建仁寺不動院

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「安国寺恵瓊」の解説

安国寺恵瓊 あんこくじ-えけい

?-1600 織豊時代の僧。
臨済(りんざい)宗。安芸(あき)(広島県)の人。京都東福寺の竺雲慧心(じくうん-えしん)に師事。安芸安国寺住持などをへて,慶長5年南禅寺住持となる。この間,外交僧として毛利輝元と豊臣秀吉との講和を成立させ,秀吉の信任をえて大名の待遇をうける。朝鮮出兵にも従軍。関ケ原の戦いで西軍に属して敗れ,慶長5年10月1日京都六条河原できられた。享年は63歳とも,64歳とも。俗姓は武田。別号に瑶甫(ようほ),一任斎。
【格言など】信長の代五年三年は持たるべく候,……左候て後,高ころびにあおのけにころばれ候ずると見え申候(本能寺の変の10年前に送った書状)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

山川 日本史小辞典 改訂新版 「安国寺恵瓊」の解説

安国寺恵瓊
あんこくじえけい

?~1600.10.1

戦国末期の禅僧。諱は恵瓊,字は瑶甫(ようほ)。一任斎・正慶と称する。安芸国の銀山城主武田信重の遺児という。1541年(天文10)銀山城が落城し武田氏が滅亡した際,同国安国寺に入る。53年に竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子,1600年(慶長5)に京都南禅寺の住持となる。毛利氏の使僧として活躍。のちに豊臣秀吉の直臣のような存在となる。関ケ原の戦では毛利輝元に味方し,京都で梟首(きょうしゅ)となる。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「安国寺恵瓊」の解説

安国寺恵瓊
あんこくじえけい

?〜1600
安土桃山時代の武将
安芸 (あき) (広島県)の出身,京都東福寺の僧となり,のち安芸安国寺,京都南禅寺に入る。毛利輝元に信任され,織田信長と足利義昭 (よしあき) の対立や,備中(岡山県)の高松城水攻めを調停。のち豊臣秀吉から伊予6万石の封をうけ,関ケ原の戦いで西軍に参加したが,捕らえられ,京都で斬首された。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の安国寺恵瓊の言及

【建仁寺】より

…南北朝期に入って五山第3位に列位され,五山文学活動の中心的存在となった。幾度か火災にあったが,1552年(天文21)諸堂宇を全焼し荒廃していたものを,安国寺恵瓊(えけい)が再建に努力し,安芸安国寺の方丈,東福寺の茶堂などを移建して旧観に復した。盛時には塔頭(たつちゆう)64院を数えたが,現在は減少して14院となり,ほかに末寺70ヵ寺を擁している。…

※「安国寺恵瓊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

世界の電気自動車市場

米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...

世界の電気自動車市場の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android