永吉郷(読み)ながよしごう

日本歴史地名大系 「永吉郷」の解説

永吉郷
ながよしごう

[現在地名]吹上町永吉

日置郡に属し、北は吉利よしとし(現日吉町)、東は伊集院いじゆういん郷、南は伊作いざく郷に接し、西は吹上浜に面する。永吉川が北側吉利村との境を西流する。江戸時代には鹿児島藩の外城の一で、永吉村一村と永吉浦からなる。もと日置南ひおきなん郷と称したが、天文二年(一五三三)島津忠良領地となった時に永吉と改称された。「長吉郷」とも記す。島津義久の家老上井覚兼は九歳(天文二二年)の頃、父母とともに当地に移住している。地頭は上井薫兼・上井覚兼・川上倍久・本田董親と次第し(上井覚兼日記)、慶長九年(一六〇四)川辺郡鹿籠かご(現枕崎市)の領主喜入忠続の長子忠栄が永吉島津家を継ぎ、同一七年永吉を領知したことにより永吉郷は私領として確定した。


永吉郷
ながよしごう

現永吉一帯に比定される。畔蒜あびる庄のうち。正中二年(一三二五)三月一七日の平胤連打渡状案(金沢文庫文書)に「畔蒜庄内永吉郷」とみえ、正和三年(一三一四)胤連の父胤清は同庄内鹿田村の田代金沢称名かねさわしようみよう(現神奈川県横浜市金沢区)年季売したが、年季明け以前の同五年頃に同所を別人永代売却したため、称名寺が幕府に訴え、幕府は元応元年(一三一九)一〇月二五日胤清に正和五年以降の寺家の損物を納めるよう命じた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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