永吉村(読み)ながよしむら

日本歴史地名大系 「永吉村」の解説

永吉村
ながよしむら

[現在地名]大崎町永吉

大橋おおはし(持留川)右岸、大崎郷仮宿かりじゆく村の南にある。東部は一部海(志布志湾)に面し、ほぼ中央を志布志しぶしから串良くしらへの道が南北に貫き、この道を挟んで松林が連なっていた。南西部には藍之原あいのはら(可愛原・愛之原とも)というシラス台地が広がる。正平一四年(一三五九)八月三〇日の島津氏久安堵状(旧記雑録)に「求仁郷永吉東方」とみえ、同所の比志田ひしだのうち地頭屋敷二ヵ所(平九郎薗・海入道薗)ならびに法橋薗一ヵ所・江六薗一ヵ所が、先日祈願の旨に任せ鹿児島諏訪神社(現鹿児島市南方神社)に寄進された。


永吉村
ながよしむら

[現在地名]鳥栖市永吉町ながよしまち

秋光あきみつ川・山下やました川・本川ほんごう(山下川支流)の流域平野に立地するが、長崎街道が南北に通る西部の一部は洪積層の低丘陵にかかる。東限はほぼ直線をなす筑後国との境界である。

村名は「肥前風土記」にみえる「長岡ながおか神社」すなわち「永世社ながよのやしろ」によるものかとされ、「和名抄」に基肄郡の郷名欠の一郷は永吉郷と推定される。文禄四年(一五九五)の検地帳写(基養精細録)に「詠吉村」とみえ、慶長絵図に「長吉村」、正保絵図に「永吉村」とみえる。近世では対馬藩領基肄郡かみ郷に属し(現鳥栖市域では柚比ゆび村と二ヵ村のみ)、村を南北二ヵ村に分ち、それぞれ庄屋を配した。


永吉村
ながよしむら

[現在地名]吹上町永吉

小野おの村の北に位置し、中世日置南ひおきなん(のち永吉郷と改称)とよばれた。近世も一村一郷よりなる日置郡永吉郷の村。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳には日置南郷内永吉村とあり、高三千四七五石余。旧高旧領取調帳では高二千三八一石余。「三国名勝図会」に「当邑専ら網を結ぶを以て産業とす」とあるように、漁網生産が行われていた。南方みなみかた神社・黒川くろかわ権現社・稲荷大明神社があったが久多島くたじま神社に合祀された。南方神社の七月二五日の祭には農民が舞踊を奉納した(三国名勝図会)愛宝えほう寺は鹿児島の真言宗大乗だいじよう院末寺で、初め宮山寺と称した。


永吉村
ながよしむら

[現在地名]鹿児島市永吉町・明和めいわ一丁目・同四―五丁目

甲突こうつき川の右岸にあり、南は原良はらら村、北は小野おの村。西部は大半がシラス台地で、台地沿いを石井手いしいで用水が南流する。中世は永吉名・永吉村として推移。天正二〇年(一五九二)四月吉日の薩隅日寺社領注文(旧記雑録)に永吉とみえ、同年の豊臣秀吉による寺社領勘落政策により七町六反余が上地され、三町八反余が寺付と定められた。文禄四年(一五九五)一二月六日の伊集院幸侃・本田三清連署宛行状(同書)に永吉村とみえ、諸侍に配分した残りのうち一〇六石余が本田助允に宛行われている。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳によると高一七三石余。


永吉村
ながよしむら

[現在地名]貝塚市永吉・久保くぼ、岸和田市南上みなみうえ町二丁目など

久保村北西隣の南郡の村。安貞二年(一二二八)八月五日の七条院処分目録案(東寺百合文書)に「和泉国永吉名」とみえ、後鳥羽天皇の生母であった七条院の所領三八所の一つで、同院から後鳥羽天皇後宮で順徳天皇生母の修明門院に伝領された。その後、順徳天皇の皇子四辻宮入道親王(善統)から宇多上皇に伝えられ、正和二年(一三一三)京都東寺に寄進されたと考えられるが詳細は不明。永正五年(一五〇八)一一月吉日の海潮庵慶瑞田地売券(阿部文書)には、「南郡木島郷麻生郷永吉」の田地一反を海眼庵奥坊に売却したことがみえる。


永吉村
ながよしむら

[現在地名]袖ケ浦市永吉

上泉かみいずみ村の東に位置し、小櫃おびつ川支流のまつ川が流れる。東から南方に久留里くるり道が通る。中世は永吉郷に含まれた。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一六一石。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数二八、旗本中山領。幕末まで同家領(天保一一年望陀郡戸口録など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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